伝記
ピュロス2世は、紀元前3世紀のエピロス王で、アイアコス家に属する。名高いピュロス王の孫にあたる。生没年は定かでなく、在位も紀元前255年から238年とも、252年または247年から234年とも、240年から234年ともされ、はっきりしない。ピュロス3世と数える研究者もいる。
父はエピロス王アレクサンドロス2世、母はその異母姉妹で妻でもあったオリュンピアスである。弟にプトレマイオス、妹にプティアがいた。父が没したとき兄弟はまだ幼く、母が後見人として政務をとった。この間に母は、ピュロスの側女ティグリスを毒殺させたとも伝えられる。父の死は紀元前242年ごろとされ、妹のプティアは、のちにマケドニア王デメトリオス2世となるデメトリオスに嫁いだ。この縁組はマケドニアとの良好な関係を固めるためのものだったといい、デメトリオスはそのとき先妻を追い、先妻は自らの兄弟のもとへ逃れたという。
この時期のエピロスは、アイトリア同盟がアカルナニア西部を狙って圧力をかける情勢に直面していた。母オリュンピアスはアイトリアに対抗するため、マケドニアのデメトリオス2世との同盟を求めた。アカルナニア人はエピロスの支援を頼みにできず、ローマに助けを求めたが、アイトリア人はローマを軽んじ、エピロスとアカルナニアへの攻撃を続けたという。のちには、アカイア同盟とアイトリア同盟の合意によって、アイトリアがエピロス領のアカルナニアへの攻撃を再開できるようになった。
やがて母は王国を息子たちに引き渡し、成長したピュロスは親政を行った。ただしその期間は短く、成人して自ら権力を握った直後に没したとされる。死因は病死とも伝えられる。没年は紀元前234年ごろとされるが、エピロス最後の王家に関する年代はすべて正確には定められず、マケドニアのデメトリオス2世の治世が始まって間もないころとみる説もある。
ピュロスには娘が2人いた。長女ネレイスは紀元前233年ごろ、シラクサの王の子ゲロン2世に嫁ぎ、のちにシラクサ最後の僭主となるヒエロニュモスを産んだ。次女デイダメイアは子がないまま世を去った。弟プトレマイオスがピュロスのあとを継いだが、遠征に軍を率いる途中で病死し、母オリュンピアスも二人の息子を失った悲しみで間もなく没したという。男系の血筋は絶え、娘デイダメイアが王位を継いだ。しかし彼女の死後、もう一人の王女ラオダメイアは祭壇に逃れたものの民衆の騒ぎのなかで殺され、その殺害者は狂って12日後に自ら命を絶ったと伝わる。やがてアイアコス家の王政は消え、エピロスは隣のアイトリアに似た連邦制をとるようになった。
同じ年に亡くなった人物
- アンドラゴラス (紀元前238年没)
同じ地域に関係する人物
- テペデレンリ・アリー・パシャ (1822年没)
- プトレマイオス (エピロス王) (紀元前231年没)
- デイダメイア2世 (紀元前230年代没)
- エピクテトス (135年没)
- ピエール2世・ド・クルトネー (1219年没)