伝記
コンスタンサ・デ・ボルゴーニャは、一〇四六年ごろに生まれたブルゴーニュ公家の女性で、のちにレオン、カスティーリャの王アルフォンソ六世の二番目の妃となった。フランス語ではコンスタンス・ド・ブルゴーニュと呼ばれる。父はブルゴーニュ公ロベール一世、母はエリー・ド・スミュールで、フランス王ロベール二世の孫に当たる。母の兄弟はクリュニー修道院長ユーグであった。兄弟アンリの息子たちにはブルゴーニュ公ユーグ一世、ウード一世、ポルトゥカーレ伯エンリケがおり、甥のエンリケはアルフォンソ六世の庶子テレサと結婚して、ポルトガル王家の祖となった。
一〇六五年、母の従兄弟に当たるシャロン伯ユーグ二世と最初の結婚をした。子供はなく、一〇七八年に夫が甥ユーグ一世のスペインへの巡礼に同行した途中で死去したため、未亡人となった。甥が叔母をアルフォンソ六世に引き合わせたともいわれる。王はクリュニー修道院と宗教的、政治的な和解を行っており、修道院長の姪であるコンスタンサとの婚姻によって、関係を強めようとした。だが王の先妻イネスはコンスタンサの遠縁に当たり、教皇からは近親婚として反対された。婚礼はレオンへの到着後、一〇七九年末から翌年初めにかけて行われた。一〇八〇年五月八日には、王とともにその名が現れる。
長女ウラカは一〇八〇年ごろに生まれ、次女エルビラは一〇八二年に生まれた。王との間には六人の子をもうけたとされるが、四人はコンスタンサの存命中に亡くなり、エルビラも若くして没して、成人したのはウラカだけであった。王妃はレオン王国とクリュニー修道院の関係を取り持ち、実家のブルゴーニュ家と夫の王家の仲介役も務めた。一〇八七年、甥ウード一世がイスラム勢力との戦いのためイベリアへ渡った際には、ブルゴーニュ伯家のライムンドも同行した。ライムンドは同年、ウラカと結婚した。王妃はサアグンのサン・ベニート修道院の近くに宮殿を建て、その内部にマグダラのマリアにささげた聖堂を設けた。結婚生活の間、夫の度重なる不貞にも耐えなければならなかったとされる。
一〇九三年に死去したが、日付は確定していない。七月二十五日から十月二十五日の間とも、九月から十月の間ともいわれる。十月二十五日にサアグンの修道士たちが国王夫妻の魂の救済を祈った時には、請願者として王だけが記され、王妃はすでに亡くなっていた。遺体はサアグンの修道院に葬られ、のちには夫やほかの王妃たちも同じ場所に埋葬された。娘ウラカは後に父の王位を継承した。
一八一〇年の修道院の火災で王の墓が壊されると、コンスタンサを含む王族の遺骨は回収され、修道院長の居室で保管された。一八二一年に修道士たちが追放された際には箱に収められ、磔刑礼拝堂の南壁に置かれた。一八三五年一月には再び別の箱に移されて文書保管所へ運ばれた。建設中の新たな聖所に王族の遺骨をまとめて安置する予定だったが、同年の修道院財産の没収に伴い、修道士の親族へ二箱が託された。隠されていた遺骨は一九〇二年に再発見された。現在はサアグンの女子ベネディクト会修道院に、アルフォンソ六世の墓と並んで、コンスタンサら王妃たちの遺骨が安置されている。
同じ年に亡くなった人物
- マーガレット・オブ・スコットランド (1093年没)
- オーラヴ3世 (ノルウェー王) (1093年没)
- ユーグ1世 (ブルゴーニュ公) (1093年没)
- フセヴォロド1世 (1093年没)
- ゾフィア (バル女伯) (1093年没)
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