伝記
マーガレット・オブ・スコットランドは、イングランド王家ウェセックス家の王子エドワードとアガサの娘で、スコットランド王マルカム3世の妃となった。1045年ごろ、亡命中の父が暮らしていたハンガリーで生まれた。祖父はイングランド王エドマンド2世で、弟にエドガー、妹にクリスティーナがいた。ハンガリーの宮廷では信仰心の厚い環境で育った。1057年、子のないエドワード懺悔王の後継者候補として父が呼び戻され、一家でイングランドへ渡った。しかし父は到着後まもなく没し、マーガレットは幼いままイングランド宮廷で暮らすことになった。
1066年に懺悔王が死ぬとハロルドが王となり、同年のヘイスティングズの敗戦後には弟エドガーが王に推されたが、戴冠には至らなかった。ノルマン軍がロンドンへ迫ると、エドガーはウィリアム征服王に引き渡された。1068年、マーガレットは母や弟妹とともに北へ逃れた。大陸へ戻ろうとした船が嵐で流され、スコットランドに漂着したと伝えられる。その場所は、セント・マーガレッツ・ホープと呼ばれている。一家はマルカム3世の庇護を受け、マーガレットは1069年とも1070年ともされる時期に、ダンファームリンで王と結婚した。マルカムは最初の妃を失っており、これが2度目の結婚であった。
信仰と教養を備えたマーガレットは夫に強い影響を与え、夫婦でサクソン風の制度や習慣を進めた。宮廷のあり方を改め、商業、手工業、教育を奨励した。宗教面では、ケルト系の教会が有力であったスコットランドで、行事や典礼をローマ式に合わせる改革に取り組んだ。ベネディクト会を招いて保護し、修道院の建設や巡礼者の宿泊施設の整備も進めた。火災で失われていたアイオナ修道院を再建し、コルンバ派をローマ教会へ結び付けることにも力を注いだ。ファイフのセント・アンドルーズへ向かう巡礼者のためには、フォース湾を渡る渡しを設けた。湾の両岸にあるサウス・クイーンズフェリーとノース・クイーンズフェリーの地名は、この渡しに由来する。
マルカムとの間には6男2女をもうけた。息子のエドガー、アレグザンダー、デイヴィッドは後にスコットランド王となり、エドマンドも王に数えられることがあるが、実際に王位に就いたかは疑問が残る。娘イーディスはマティルダの名でイングランド王ヘンリー1世の妃となった。もう一人の娘メアリーはブローニュ伯ウスタシュ3世と結婚し、その娘はイングランド王スティーヴンの妃となる。1093年11月、夫と長男エドワードがイングランド侵攻中に命を落とした時、マーガレットはエディンバラ城で病床にあった。二人の死の知らせを受けた後、11月16日に死去し、ダンファームリン修道院に葬られた。
1250年、教皇インノケンティウス4世によって列聖され、遺骸はダンファームリンの聖廟へ移された。後のスコットランド宗教改革で聖遺物は散逸した。頭部は一時、スコットランド女王メアリーが所有し、その後フランスのドゥエーにあるスコットランド学院でイエズス会士に保管されたが、フランス革命の時に失われた。カトリック教会と聖公会で聖人として崇敬されている。
同じ年に亡くなった人物
- ユーグ1世 (ブルゴーニュ公) (1093年没)
- ゾフィア (バル女伯) (1093年没)
- ベルト・ド・オランド (1093年没)
- フセヴォロド1世 (1093年没)
- Bertrand II of Provence (1093年没)
同じ地域に関係する人物
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- ジェームス・グレゴリー (1675年没)
- コリン・マクローリン (1746年没)
- アリスター・ダーリング (2023年没)
- デヴィッド・アラン (画家) (1796年没)