伝記
ベルト・ド・オランドは、西フリースラント伯フロリス1世とゲルトルート・フォン・ザクセンの娘で、フランス王フィリップ1世の最初の王妃となった女性である。ベルタ・ファン・ホラント、ベルト・ド・フリーズの名でも知られる。1055年ごろ、または1058年ごろに生まれたとされる。母を通じてザクセン公ベルンハルト2世の孫に当たり、ビルング家の血を引いていた。両親の7人の子の一人で、フリー川以西のフリースラントで幼少期を過ごした。1061年に父が暗殺され、1063年に母がフランドル家のロベールと再婚すると、その後見のもとで育った。
1070年、ロベールは兄ボードゥアン6世の死後、フランドルの継承を主張し、兄の遺児アルヌール3世とその母リシルドに対抗した。1071年2月のカッセルの戦いでアルヌールが戦死し、ロベールは伯位を得たが、リシルド母子を援助していたフィリップ1世との対立が残った。両者が和平を結ぶに当たり、婚姻によって関係を固めることになった。ロベール自身の娘たちはまだ幼く、結婚できる年齢の継娘ベルトが相手に選ばれ、1072年に王へ嫁いだ。王妃の候補としては身分が低く、王の血統もカロリング家とのつながりもなかったが、そのためフィリップとの近親婚を避けられた。他の有力候補は王と血縁が近過ぎるという問題を抱えていた。
王妃という称号は権威を伴ったものの、フィリップの直接支配はパリとオルレアン周辺の狭い王領に限られていた。ベルトの王妃としての活動も詳しくは分からず、共同で署名した寄進証書は3通である。ソワソンの聖アルヌールの伝記には、サン・メダール修道院長ジェラールを王権で追放し、管理上の失敗から退けられていた前任者ポンティウスを復職させたという逸話がある。アルヌールは神の怒りを招いて追放されると警告したが、王妃は怒って聞き入れなかったとされる。この伝記はベルトの死後に書かれ、王妃名をベルトラードとするものの、描かれた事件の時期に在位していたのはベルトであった。
結婚後は6年間子を得られず、王位を継ぐ男子の誕生が待たれた。1078年に娘コンスタンス、1081年に後のルイ6世、1083年にアンリが生まれたが、アンリは幼くして没した。1085年生まれのシャルル、1087年生まれのウードも子に数えられる。待望の後継者の誕生には、聖アルヌールの祈りによって子を授かったという話も結び付けられた。1090年ごろには夫婦関係が崩れ始めた。王が王妃の肥満を理由にしたともいわれるが、王自身も馬に乗れないほど太っていた。離縁の理由は明確ではなく、婚姻無効を求める際に血縁関係を持ち出したともされる。
1092年、フィリップはベルトを離縁し、アンジュー伯フルク4世の妻ベルトラード・ド・モンフォールを新たな伴侶に選んだ。相手も既婚であったため、この再婚は大きな問題となり、継父ロベールの怒りも買った。ベルトは自らの婚資に含まれたモントルイユの要塞へ退き、そこで没した。没年は1093年とも1094年ともされる。フィリップは後まで生存したフルクの妻を迎えていたため、ベルトの死後も婚姻の問題は残った。
同じ年に亡くなった人物
- フセヴォロド1世 (1093年没)
- コンスタンサ・デ・ボルゴーニャ (1093年没)
- ユーグ1世 (ブルゴーニュ公) (1093年没)
- アラン・ルーファス (1093年没)
- マルカム3世 (スコットランド王) (1093年没)
同じ地域に関係する人物
- ギルバート・アポット・ア・ベケット (1856年没)
- ジャン=フランソワ・ピラートル・ド・ロジェ (1785年没)
- ギヨーム・クリトン (1128年没)
- フランソワ・ファベール (1915年没)
- ウスタシュ3世 (ブローニュ伯) (1120年代没)