HISTORICAL PERSON · 1094年没

ダンカン2世 (スコットランド王)

スコットランド王。イングランドで人質生活を送った後、援軍を得て叔父ドナルド3世から王位を奪還したが、臣従姿勢への反発から半年後に暗殺された。

生涯
1094年没
死亡地
イギリス連邦(ノーサンバーランド / ベリック・アポン・ツイード)
出生地
—
出典
世界地図
イギリス連邦(ノーサンバーランド)

伝記

ダンカン二世は、一〇六〇年ごろにスコットランド王マルカム三世の息子として生まれた。母はオークニー伯ソルフィンの未亡人イーンガボーグとされ、名は祖父ダンカン一世にちなんでいる。ただし、母はスコットランドやイングランドの同時代の年代記には現れず、父との婚姻の性格にも不確かな点がある。ダンカンを庶子と呼ぶ記述も伝わるが、これはマルカムと後妻マーガレットの子孫が、ダンカンの系統の継承権を弱めるために用いた宣伝とも考えられる。エドワード、エドマンド、エドガー、アレグザンダー、デイヴィッドらは異母弟に当たる。

父マルカムはノルマン人に追われたイングランド王族エドガーを保護し、一〇七一年にはその姉妹マーガレットと結婚した。北イングランドへの侵入も行ったため、ウィリアム一世は一〇七二年にスコットランドへ大規模に攻め込んだ。両王はアバネシーで会見し、マルカムはイングランド内の領地についてウィリアムに臣従した。この和約に伴って、ダンカンは人質としてウィリアムの手に預けられた。以後アングロ・ノルマンの宮廷で育ち、その文化、教育、制度になじみ、ノルマン騎士として訓練されて軍事行動にも加わった。一〇八七年にウィリアムが死去すると、ノルマンディー公を継いだロベールがダンカンを解放し、正式に騎士にしたとされる。しかし故国へは戻らず、イングランド王位を継いだウィリアム二世の宮廷に身を置いた。

一〇九〇年、ノーサンブリア伯ゴスパトリックの娘エセルリーダと結婚した。夫妻の間にはウィリアム・フィッツダンカンが生まれた。父王はダンカンが不在の間、マーガレットとの長男エドワードを後継者としていた。一〇九二年にはウィリアム二世がカンブリアのカーライルを奪い、翌年には城の建設を始めた。両王の敵対が続く中、一〇九三年十一月十三日、マルカムはノーサンブリアへの遠征中、アニック付近で待ち伏せを受けて戦死した。エドワードも同じ戦いで致命傷を負い、マーガレットはその報を知った数日後に没した。王位はマルカムの弟ドナルド三世のものとなった。新王は在来貴族の支持を得て、前王夫妻の宮廷に来ていたアングロ・サクソン人やノルマン人を追い出した。

ダンカンはウィリアム二世の支援を受け、叔父から王位を奪うことを目指した。その見返りとして、援助者に忠誠を誓った。ドナルドの支配に不満を持つ低地の領主や聖職者と結び、軍事的、財政的な協力を得た。ウィリアム二世自身は遠征に加わるつもりはなかったが、ノルマン軍の一部を貸し与えた。一〇九四年五月、ダンカンは挙兵してドナルドの軍を破り、スコットランド王となった。しかしイングランドへの臣従の姿勢に対する重臣たちの反発は強かった。即位からおよそ半年後の十一月十二日、メアンズ地方のモンダインズで、ドナルド側によって暗殺された。遺体はダンファームリン修道院に葬られた。

その後はドナルド三世が復位し、ダンカンの異母弟エドマンドと共同で統治した。しかし一〇九七年、別の異母弟エドガーがイングランドの支援で挙兵し、二人を破って王位を得た。ダンカンの息子ウィリアムは成長してマリ伯となり、一一四七年まで生きた。短い在位を終えた王の家系は、この息子を通じて続いた。

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