伝記
サンチョ1世は、1042年ないし1043年ごろに生まれたアラゴン王で、1076年からはナバラ王サンチョ5世を兼ねた君主である。サンチョ・ラミレスとも呼ばれ、父はアラゴン王ラミロ1世、母はフォワ家の出身であった。1063年、父がサラゴサとカスティーリャの連合軍に敗れて戦死すると、アラゴン王位を継いだ。1060年代前半から半ばごろには、ウルジェイ伯アルメンゴル3世の娘イザベルと結婚した。1064年には教皇アレクサンデル2世の呼びかけで諸国の軍がバルバストロを攻略した。サンチョ自身の関与には異説があるが、この遠征は王国と西欧との結びつきが深まる時期にあたった。1065年にはサラゴサのタイファへの遠征で、アルケサルや、その近くのブエラ、コルンゴ、アダウエスカを征服したとされる。
1067年ごろ、従兄弟のナバラ王サンチョ4世が、カスティーリャ王サンチョ2世と争うと、アラゴン王はナバラ側を支援した。しかし両国は敗れ、カスティーリャがナバラの領土の一部を奪った。1068年にはローマへ赴き、王国の基盤を強めるため教皇への臣従を表明した。年ごとに金600マルクを納めることも約束したが、実際の納付開始はのちになった。宗教面では修道院の改革を進め、サン・フアン・デ・ラ・ペーニャ修道院の再建を命じた。1071年には王領の修道院でローマ式典礼の採用が始まったが、ハカ司教で王の兄弟であるガルシアらの抵抗もあった。イザベルとは離婚し、フランス貴族ルシー家のフェリシーと再婚した。
1076年、ナバラ王サンチョ4世が兄弟の陰謀で殺されると、継承をめぐる争いが起きた。カスティーリャ・レオン王アルフォンソ6世はリオハへ進出したが、ナバラの貴族は、王殺しに関わった兄弟や幼い王子ガルシアの支配を望まず、アラゴン王を選んだ。サンチョはアルフォンソと戦って新たな王国を守り、ナバラ王位を兼ねた。王子ガルシアはカスティーリャへ逃れ、王を称したものの領土を回復できなかった。翌1077年にはハカへフエロを与え、外国人、商人、職人の定住を促した。同地へ司教座を置くなど、都市と王国の組織も整えた。この年には教皇グレゴリウス7世にも臣従した。
1078年にはサラゴサ地方を荒らし、1083年にはグラウスを奪った。エブロ川、シンカ川、ガリェゴ川の河谷に沿って進出し、タイファ諸国に貢納を課した。フランス貴族との姻戚関係は、イベリア半島へ来る騎士たちの援助につながった。アルフォンソ6世とは関係を改善し、1086年のサグラハスの戦いでは、ムラービト朝のユースフ・イブン・ターシュフィーンと戦う王を助けた。1087年には教皇への貢納を始めた。1088年には教皇ウルバヌス2世にも臣従し、翌年にはモンソンを征服した。1090年にはトレド包囲へ援軍を送り、1092年にはエル・シッドと相互援助の協定を結んだ。1094年にはウエスカを包囲したが、6月4日に陣中で死去した。イザベルとの子ペドロ1世が王位と包囲を引き継ぎ、1096年11月21日に市を降伏させた。フェリシーとの子アルフォンソ1世とラミロ2世も、のちにアラゴン王となった。
同じ年に亡くなった人物
- マフムード1世 (セルジューク朝) (1094年没)
- ギヨーム4世 (トゥールーズ伯) (1094年没)
- ロジャー・ド・モンゴメリー (初代シュルーズベリー伯) (1094年)
- アル=ムスタンスィル・ビッラー (1094年没)
- ダンカン2世 (スコットランド王) (1094年没)
同じ地域に関係する人物
- ラミロ1世 (アラゴン王) (1063年没)
- アルフォンソ1世 (アラゴン王) (1134年没)
- フェリックス・デ・アサーラ (1821年没)
- サンチャ・デ・カスティーリャ (アラゴン王妃) (1208年没)
- Isabella of Aragon (1424年没)