伝記
マルパ・チューキ・ロドゥは、1012年、チベット南部ロダク地方のチュキェルにある裕福な地主の家に生まれた。三人きょうだいの末子で、幼いころは気性が荒く、父によって仏法の学習に託された。初めは竜神に関する儀礼を学び、12歳で西チベットの師ドクミ・ロツァワのもとへ送られた。そこで三年間サンスクリットなどのインドの言語を修め、読み書きも速やかに身につけた。チューキ・ロドゥという名は、この師から与えられたとされる。さらに著名な仏教の師に学び、チベットでまだ知られていない教えを持ち帰ろうと、インドへ向かうことを決めた。旅費と師への供物を用意するため、故郷で受け継いだ財産をすべて金に換えたという。
初めの旅ではニョ・ロツァワと連れ立ち、その従者として道を進んだ。ネパールではナーローパの弟子であるパインダパとチテルパに学び、カトマンズのスワヤンブナートで三年間過ごしたとされる。やがてパインダパに伴われ、ナーランダーの近くのプラハリへ赴いた。ナーローパ本人に師事したと伝えられる一方、その教えは中間の弟子を通じて受けたともいう。マイトリーパとニグマからは直接教えを受けた。インドでの修学は十二年に及び、密教の教えや大印の修行、宗教的な詩歌の伝統などを学んだ。ナーローパの勧めでジュニャーナガルバから秘密集会の教えを受け、ヘーヴァジュラの教えも学んだという。帰途、同行者が嫉妬して書物をガンジス川へ投げ捨て、事故を装ったという伝承がある。この出来事を通じて書物への執着を離れ、同行者への慈悲を歌ったとされる。ネパールでは夢にサラハが現れて大印を教えたともいう。
ロダクに戻るとダクメマと結婚し、畑仕事や小商いをしながら弟子を受け入れた。いとこのマルパ・ゴレクもその一人であった。数年後、師たちに感謝の金を捧げるため、三十歳ごろに再びインドへ旅立ったとされる。この旅で新たなサンスクリットの経典を受け取り、チベット語に翻訳した。六年に及んだ二度目の旅から帰ると、ミラレパが弟子となった。また、1052年にはザンスカールにストンデ寺を創建したと伝えられる。五十歳を過ぎて行った三度目のインド行きは、さらに経典を集めるためというより、最終的な教えを直接受けるための旅であった。途中でアティーシャと出会い、プラハリではナーローパがすでに去ったと知らされた。八か月にわたって探した末、放浪の修行生活にあった師と再会し、灌頂や意識の転移に関する口伝を授かったという。
最後の帰国後も、家族と暮らしながら経典の翻訳と弟子への教授を続けた。インドから伝えた著作はおよそ五十に及び、翻訳師を意味するロツァワの名で呼ばれる。教えの中心となったのは、明晰夢の修練も含むナーローパの六法と、大印すなわちマハームドラーであった。息子ダルマ・ドデが死去したのち、法の系譜はミラレパが全面的に受け継いだ。家の血筋ではなく弟子によって系譜が続くというナーローパの予言も伝えられている。マルパ・ゴレクは身辺を支える役目を務め、師の死まで離れなかった。マルパは1097年に死去した。その伝承はマルパ・カギュと呼ばれ、チベット仏教のカギュ派の系譜を形づくった。
同じ年に亡くなった人物
- ニザール・ブン・アル=ムスタンスィル (1097年)
- ルノー2世 (ブルゴーニュ伯) (1097年)
- アルベルト・アッツォ2世・デステ (1097年没)
- オド (1097年没)
- ペータル・スヴァツィチ (1097年没)