伝記
ミラレパは、1052年にチベット南部のネパール国境に近いクンタン地方で生まれた仏教修行者であり、宗教詩人である。名家キュンポ氏族の父ミラ・シェラプ・ギャルツェンと、ニャン地方の王族の末裔とされる母カルモ・キェンの子で、本名はトゥーパ・ガといい、妹にペタ・ゴンキーがいた。幼少期は何不自由なく過ごしたが、7歳のころに父が病死すると、父の莫大な遺産を叔父ユンドゥン・ギャルツェンと叔母キュン・ツァ・ペルデンに奪われた。一家は召使いの身分に落とされ、虐待を受ける苦しい暮らしを強いられた。
母は叔父と叔母に激しい憎しみを抱き、その願いを受けたミラレパは復讐のために黒魔術を学んだ。修得した呪法で、叔父と叔母を除く叔父の一族と、虐待に加わった村人35人を呪い殺したと伝わる。さらに雹の嵐を起こして村の農作物をことごとく壊滅させ、大きな悪業を積んだ。のちにその報いを恐れて真の仏法を求めるようになり、ニンマ派のゾクチェンを成就した高名なラマ、ロントン・ラガに弟子入りしたが、ラマに帰依できず、霊的な進歩は起こらなかった。ロントン・ラガは、前世からの因縁をもつ別のラマのもとへ行くよう告げた。それが、生涯の師となるマルパである。
マルパはインドの聖者ナーローパ直伝の新訳密教の法脈を伝える訳経師で、ミラレパが訪ねた日の早朝に霊的な夢を見て、彼が師ナーローパとダーキニーに授けられた特別な弟子であることを最初から知っていたと伝わる。それでもミラレパを迎えると、石造りで多層階の塔を独力で建てよと命じ、途中まで完成すると解体して材料を元の場所に戻せと命じた。場所と設計を変えながら、この建設と解体を長期にわたって繰り返させたほか、公衆の面前でミラレパを罵倒し、殴打した。灌頂を受ける弟子の輪からも彼だけを何度も追い出し、望む教えを与えなかった。ミラレパは傷つき、絶望のすえに自殺を図ろうとするまでに追い込まれた。ここに至り、悪業がほぼ浄化されたと知ったマルパは、ミラレパを弟子として受け入れ、法名と灌頂を授けて奥義を伝え、隠棲修行に入らせた。ミラレパはマハームドラーを成就し、カギュ派の法脈の後継者となった。
師のもとを離れたミラレパは、山中の洞窟で孤独な苦行に励んだ。食べ物が尽きると、托鉢に出る時間を惜しんで洞窟の周りに生えるイラクサの水煮だけを食べ、体が緑色になるほど痩せ衰えたという。衣が擦り切れると、洞窟にあったツァンパの布袋を体にまとい、それも擦り切れると全裸のまま修行を続けたとも伝わる。トゥンモのヨーガによって体温を制御できたため、雪線より高い土地でも綿の衣だけをまとい、これが「綿衣の行者」を意味するミラレパの名の由来とされる。完全な悟りを得たのちは各地を巡って教えを詩に歌い、弟子を育てた。妹のペタ・ゴンキーや、かつての許嫁ジェーセ、叔母のキュン・ツァ・ペルデンも弟子になったという。晩年、名声を妬んだ学僧ゲシェ・ツァプワに毒入りのヨーグルトを供されたが、自らそれを飲み、病に陥った。ゲシェはのちに悔い改めたと伝わる。ミラレパは1135年に84歳で、チュバルの地で弟子たちに囲まれて世を去った。死後は弟子ガムポパが法脈を継いでカギュ派の教団を確立し、伝記『ミラ・ナムタル』と詩集『ミラ・グルブム』は、死後およそ300年を経た15世紀に編まれた。
同じ年に亡くなった人物
- ボエモン2世 (アンティオキア公) (1130年)
- シグル1世 (ノルウェー王) (1130年)
- アーミル・ビアハカームッラー (1130年)
- 李唐 (1130年)
- イシドロ (1130年)