伝記
オドは、エルルアン・ド・コントヴィルとエルレヴァの子として生まれたノルマン貴族である。母エルレヴァはウィリアム征服王の母でもあり、オドは征服王の異父弟に当たる。モルタン伯ロベールは実の兄であった。生年は1035年ごろとも1030年ごろともいわれ、確定していない。1049年に聖職の誓願を立て、同年、ノルマンディー公であったウィリアムによってバイユー司教に任命された。就任時の年齢は十四歳ほど、早い生年を採っても十九歳ほどで、司教に求められる三十歳という教会法上の年齢には達していなかった。以後、聖職者としての地位とともに、公の近親者として軍事や政治にも関与した。
イングランド遠征をめぐるリルボンヌの会議に参加し、侵攻に使う船の費用を出した。1066年のヘイスティングズの戦いにも加わり、征服王の従軍者の一人となった。戦場では棍棒あるいは指揮棒を携えていたとされる。1067年にはケント伯に任じられ、王の信任を受けて政務を担った。ウィリアムがノルマンディーへ戻って留守にする際には、イングランドの摂政を務めることもあり、伯爵たちの反乱などに対して王軍を指揮した。ただし、その権限が及ぶ正確な範囲は明らかではない。王に随行してノルマンディーへ渡る場合もあった。この時期にイングランド各地の広大な所領を得て、王を除けば最大規模の領主となった。所領は南東部とイースト・アングリアを中心に二十三の州にまたがっていた。
1076年には、王室とカンタベリー司教区の財産を不当に取得したとして、ケントのペネンデン・ヒースで裁判にかけられた。大勢の有力者が集まった審理は三日間続き、オドは複数の財産を返還させられ、保有資産の配分も改められた。一方、バイユーでは前任者の代から進められていた大聖堂の再建が続いていた。ほぼ完成した聖堂の献堂式が1077年に行われ、その際、カンタベリーで制作されたバイユーのタペストリーが初めて堂内に掲げられた可能性がある。この作品はオドが発注したものと考えられ、兄ウィリアムへの贈り物だったとも推測される。画面にはオドが棍棒を手に兵士を励ます姿も織り込まれた。大聖堂の再建工事は1080年に完成した。
1082年、オドは突然失脚して投獄された。圧政や横領が理由だったとも、王に無断で家臣を連れてイタリアへ遠征しようとしたためともいう。教皇グレゴリウス7世と皇帝ハインリヒ4世が争うなか、自ら教皇となることを望んだという説もある。事態を知った王は海峡を渡ってオドに対処した。その強大な権勢を恐れ、有力者は断罪を、兵士は逮捕を引き受けず、王自身が両方を行ったともいう。逮捕に際し、司教を裁けるのは教皇だけだと抗議したところ、ウィリアムは伯爵として逮捕するのだと答えたと伝えられる。オドはルーアンで五年間拘禁され、イングランドの所領とケント伯位を失ったが、バイユー司教の職は保った。1087年、死の床にあったウィリアムはモルタン伯ロベールの説得を受け、オドを釈放した。王の死後、オドはイングランドへ戻った。のちに十字軍の遠征へ向かい、その途上の1097年、シチリア島のパレルモで死去した。
同じ年に亡くなった人物
- アヌーシュ・テギーン (1097年没)
- ペータル・スヴァツィチ (1097年没)
- 献宗 (高麗王) (1097年没)
- ニザール・ブン・アル=ムスタンスィル (1097年)
- アルベルト・アッツォ2世・デステ (1097年没)
同じ地域に関係する人物
- グリエルモ1世 (1166年没)
- 聖ロザリア (1166年没)
- ラッキー・ルチアーノ (1962年没)
- ハミルカル1世 (紀元前480年没)
- ルッジェーロ3世 (1193年没)