伝記
ボードゥアン二世は、一〇五六年に生まれたエノー伯である。父はフランドル伯ボードゥアン六世、母はエノー女伯リシルドで、兄にアルヌール三世がいた。一〇七一年、兄がカッセルの戦いで命を落とすと、ボードゥアンはエノー伯位を継いだ。しかしフランドル伯位は、この戦いに勝った叔父ロベール一世が得た。母リシルドは息子のためにフランドルを取り戻そうとし、軍資金を得るため、エノー伯領をリエージュ司教の封土とした。その取引で得た資金を使い、一〇七二年ごろ、ブイヨン公やナミュール、ルーヴァン、モンテギュ、シニーなどの諸伯を集めて同盟を結んだが、ブロクロワでロベールに決定的な敗北を喫した。
ボードゥアンが未成年だった一〇八三年まで、母はなおフランドル奪回を目指して戦ったものの、目的を果たせなかった。一〇八四年、ボードゥアンはルーヴァン伯アンリ二世の娘イドと結婚した。イドはルーヴァン伯ゴドフロワ一世の姉妹であった。夫婦の間には、後にエノー伯となるボードゥアン三世のほか、ルイ、シモン、アンリ、ギヨーム、アルヌール、イド、リシルド、アレイディスらが生まれた。シモンはリエージュの律修司祭となり、アルヌールはルーの領主となった。
教皇ウルバヌス二世の呼びかけによって始まった第一回十字軍に、ボードゥアンも参加した。出発にあたっては所領の一部をリエージュ司教に売却した。軍を共にしたのはゴドフロワ・ド・ブイヨンであり、近い親族であるフランドル伯ロベール二世の軍には加わらなかった。両家の不和がまだ解消されていなかったためである。一〇九八年、アンティオキアの包囲戦の後、ビザンツ皇帝アレクシオス一世に援助を求める使節として、ヴェルマンドワ伯ユーグとコンスタンティノープルへ向かった。
その途中、アナトリアでセルジューク朝のトルコ人による襲撃に遭い、ボードゥアンは姿を消した。この時に殺されたと考えられているが、その安否は長く確認されなかった。伯位は息子ボードゥアン三世へ受け継がれた。妻イドは一一〇六年、エルサレムへ巡礼する機会に、アナトリアで行方不明の夫を捜す手配をした。しかし、その捜索でも夫の消息を確かめることはできなかった。
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