伝記
アデマール・ド・モンテイユは、一〇五五年ごろ、南東フランスのドーフィネの貴族家に生まれたとされる聖職者である。モンテイユ領主家の出身と考えられるが、その系譜には不明な点も多い。三人兄弟の長男で、教会に入る前には軍人の道を歩んだともいわれる。ル・ピュイ司教エティエンヌ・ド・ポリニャックが聖職売買によって破門され、一〇七七年に教皇グレゴリウス七世が改めてその処分を下すと、後任の司教に選ばれた。教皇の進める教会改革を支持し、ポリニャック家をはじめとする地元の有力者と対立した。教会財産を奪ったり農民に危害を加えたりする領主に対し、破門を用いて対処することもあった。一〇八六年から翌年にかけて巡礼に出たが、目的地がエルサレムだったかは確かではない。
一〇八七年にはラ・シェーズ=デュー修道院へユッソンを寄進し、レーモン・ド・サン=ジルが証人となった。一〇九五年十一月、クレルモン教会会議に参加した。最終日の二十七日、ウルバヌス二世がビザンツ帝国の救援と聖地奪還を呼びかけると、アデマールはこれに応じ、教皇使節として遠征の精神的指導を託された。翌年には資金を集め、トゥールーズ伯レーモン四世と南フランスの軍勢の結集を進めた。一〇九六年十月にル・ピュイを出発し、アルプスを越え、ロンバルディアとダルマチア沿岸を経てドゥラッツォに入った。行軍中には十字軍とビザンツ側との衝突が相次いだ。一〇九七年二月、オフリド付近でラバから落とされ、金品を狙う兵士に殴られた後、体調を崩した。三月には本隊を離れ、サロニカ付近で少数の手勢と休養した。レーモンは四月二十七日にコンスタンティノープルへ着いたが、皇帝アレクシオス一世への臣従を拒んだ。遅れて到着したアデマールは伯をなだめ、皇帝と敵対する意図はないとの約束を取り付けた。
軍はボスポラス海峡を渡り、ニカイアの包囲を経て小アジアを進んだ。六月末、ドリュラエウムでクルチ・アルスラーン一世らの軍に包囲されたノルマン諸侯軍を、アデマールは自ら兵を率いて救援した。十月二十日に始まったアンティオキアの包囲は翌年六月まで続き、飢えや病気、長期戦による士気の低下が兵を苦しめた。アデマールは断食や祭日の儀式を行い、軍を支えた。その幕舎では諸侯の軍議も開かれた。市を占領した後、今度はモースルの領主ケルボガの援軍に包囲されると、市内の行進を組織し、家の門を閉めさせ、混乱した兵が略奪に走るのを防いだ。
包囲中、ペトルス・バルトロメオが夢の告げによって聖槍を発見したと主張し、兵の熱狂を呼んだ。アデマールは、聖槍はすでにコンスタンティノープルにあるとして疑ったが、士気を高める効果を考え、公然と熱意をそがなかった。一〇九八年六月二十八日の出撃では、自らも軍を率いてケルボガの陣営へ突撃した。包囲を破った後は、アンティオキアの領有と主導権を争うボエモンとレーモンらを和解させようと会議を開いたが、対立は収まらなかった。同年八月一日、チフスとみられる病で死去した。諸侯の争いや食糧不足が残る中、軍は指導者を失った。翌年のエルサレム包囲では、アデマールの霊が現れ、城壁の周囲を行進するよう教えたと主張する兵もいた。
同じ年に亡くなった人物
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- カイ・カーウース (1098年没)
- ヤーギー・スィヤーン (1098年没)
- Thoros of Edessa (1098年没)
同じ地域に関係する人物
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- スライマーン・イブン・クタルミシュ (1086年没)
- ディオドトス・トリュフォン (紀元前138年没)
- クリスティアン・アツ (2023年没)