伝記
ウィリアム2世は、ノルマン朝イングランドの第2代国王(在位1087年〜1100年)である。ウィリアム征服王とマティルダの三男で、兄にロベール、弟にヘンリー1世がいる。生年ははっきりせず、1056年から1060年ごろの間と考えられている。フランス名はギヨーム2世で、鬚が赤かったこと、あるいは赤ら顔であったことにちなんで「赤顔王」と呼ばれた。12世紀の歴史家マームズベリのウィリアムは、がっしりした体つきで、目の色が左右で違い、身長はそれほど高くないが腹がかなり出ていた、と描写している。1077年から78年ごろには、上階から尿壺をひっくり返して階下の兄ロベールに浴びせる悪戯を弟ヘンリーと仕掛け、乱闘になって父が仲裁に入ったという逸話も伝わる。
父の信頼が厚かった高僧ランフランクスの教育を受けて育った。1087年に父がノルマンディーで危篤になると、王位を狙う兄ロベールに先んじて、父の死を見届けないまま9月26日にウェストミンスター寺院で戴冠した。ロベールはノルマンディー公を継いだ。父がイングランドとノルマンディーを二人の息子に分けたため、両方に領地を持つ貴族は板挟みとなり、1088年には諸侯が両国を一人の君主のもとに再統合しようとして反乱を起こした。ロベールは動かず、反乱は失敗した。王は諸侯に銀を配り、善政を約束して味方につけ、威厳を回復した。1091年にはノルマンディーに攻め込んでロベールの軍を破り、領土の一部を譲らせた。1096年にロベールが第1回十字軍に加わると、その遠征費として1万マルクを貸し、ノルマンディーを担保に取った。これはイングランドの約3か月分の歳入に相当するといい、王は重税を課して工面した。
対外的には北のスコットランドに力を及ぼした。1091年に攻め寄せたマルカム3世に従属を強い、1092年にはカーライル城を築いて周辺地方を支配下に置いた。その後マルカム3世は再び侵攻したが、1093年11月に奇襲を受けて息子とともに戦死した。王はマルカム3世の息子ダンカン2世を王位につけたが、ダンカンは暗殺された。王は後にマルカムの別の息子エドガーを支援して、1097年にドナルド3世を追放させ、エドガーを王位につけた。1097年にはウェールズにも2度侵攻し、決定的な成果はなかったものの、辺境に城や防衛施設を築いた。同年、王国の威厳を諸侯に示すためウェストミンスター宮殿を建てさせた。国内では、父が編ませた土地台帳ドゥームズデイ・ブックに記された入植地を受け継ぎ、1095年には御前会議への出席を拒んだノーサンブリア伯を討って領地と爵位を奪い、収監した。
統治の後半は聖職者との対立に彩られた。1089年にランフランクスが没すると、王は数年間、後任のカンタベリー大司教を置かず、司教座の収益を国庫に入れていた。1093年に重い病にかかった王はイタリア出身のアンセルムスを任命したが、改革を支持するアンセルムスとは教会をめぐって激しく対立し、1097年10月、アンセルムスはローマへ亡命した。教皇ウルバヌス2世は新たな敵を作ることを避け、王と協約を結んだとされる。王は大司教座の収入を国庫に編入し続けた。
1100年8月2日、ニューフォレストで狩猟中に、部下の放った矢に当たってあっけなく死去した。生涯独身で子がなく、王位は弟のヘンリー1世が継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- Goffredo Malaterra (1100年没)
- 赤染衛門 (1100年(推定))
- レオンティ・ムロヴェリ (1100年没)
- エドマンド・オブ・スコットランド (1100年)
- ゴドフロワ・ド・ブイヨン (1100年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョン・モーズビー (1922年没)
- ジョン・ガードナー (イギリスの小説家) (2007年没)
- アーサー・アダムズ (1878年没)
- William Robert Ogilvie-Grant (1924年没)
- ロドニー・ロバート・ポーター (1985年没)