伝記
ヴェルフ一世は、一〇三五年から一〇四〇年ごろに生まれたバイエルン公である。父はエステ家のアルベルト・アッツォ二世、母は古ヴェルフ家出身のクニグンデであった。母はヴェルフ二世の娘で、クニツァの名でも知られる。母方の叔父であるケルンテン公ヴェルフ三世が、一〇五五年に子を残さず死ぬと、祖母イミツァに招かれてその遺産を受け継ぎ、新たにヴェルフ家を継いだ。エステ家につながる新しいヴェルフ家の祖となり、一族の系譜ではヴェルフ四世とも数えられる。父はイタリアで教皇派に立ったが、ヴェルフはドイツでの所領と婚姻を通じ、同地の政治にかかわるようになった。
一〇六二年、バイエルン公オットー・フォン・ノルトハイムの娘エテリンデと結婚した。義父がハインリヒ四世と対立し、一〇七〇年に公位を失うと、ヴェルフは王への忠誠を保った。王の命令に従って妻と離婚し、同年ゴスラーで、オットーに代わるバイエルン公に任命された。新たな公の就任に、バイエルンでは大きな抵抗は起きなかった。翌年、フランドル伯ボードゥアン四世の娘ユーディトと再婚した。ユーディトはノーサンブリア伯トスティ・ゴドウィンソンの未亡人であった。この結婚から、ヴェルフ、ハインリヒ、クニグンデの三人の子が生まれた。長男は一〇七二年または一〇七三年、次男は一〇七四年または一〇七五年の出生とされる。最初の妻との間には子はいなかった。
しかし、ハインリヒ四世と教皇グレゴリウス七世が叙任権をめぐって争うと、ヴェルフは教皇側へ転じた。一〇七七年三月には、シュヴァーベン公ルドルフ・フォン・ラインフェルデンを対立王として擁立する動きを支持した。この反抗に対し、ハインリヒ四世はヴェルフのバイエルン公位を剥奪した。ヴェルフは忠実なバイエルンの支持者やイタリアの父の援助を受け、帝国の処分に抵抗を続けた。一〇八九年には長男ヴェルフをトスカーナ女伯マティルデと結婚させ、教皇派との結び付きを強めた。だが一〇九五年に息子の婚姻が解消されると、翌年にはハインリヒ四世と和解し、バイエルン公位を取り戻した。
一〇九七年に父アッツォ二世が死ぬと、アルプス以南の父の所領を得ようとしたが、異母弟フォルコ一世との争いに勝てなかった。一〇九九年には、後に一一〇一年の十字軍と呼ばれる遠征に加わり、アキテーヌ公ギヨーム九世、ヴェルマンドワ伯ユーグ、オーストリアのイーダらと行動した。コンスタンティノープルへ向かう途中、ビザンツ領で略奪する十字軍兵と、皇帝に仕えるペチェネグ人傭兵との衝突を防いだ。しかし小アジアに入った遠征軍は惨敗した。一一〇一年九月にヘラクレアを過ぎた後、ヴェルフのバイエルン兵は、ほかの部隊と同様、ルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン一世の軍に待ち伏せされ、多くが殺された。ヴェルフ自身は脱出したが、帰路のキプロス島パフォスで、同年十一月六日とも九日ともいわれる日に死去した。遺体はヴァインガルテン修道院に葬られ、公位は息子ヴェルフ二世が継いだ。次男も後にハインリヒ九世としてバイエルン公となった。娘はクニツァとも呼ばれ、ディーセン伯フリードリヒ・ロホの妻となった。
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