伝記
ヴワディスワフ1世ヘルマンは、1043年とも1044年ごろともされる年に、ピャスト家のポーランド公カジミェシュ1世とマリア・ドブロニエジェの次男として生まれた。兄はボレスワフ2世で、次男のヴワディスワフは初めから君主になる立場ではなかった。名の分からない女性との間に、1073年にズビクニェフをもうけたが、この男女の結びつきは教会から正式に認められなかった。1079年、兄ボレスワフがクラクフ司教スタニスワフとの対立を経て王位を追われ、国外へ逃れると、ヴワディスワフがポーランド公となった。兄の追放に積極的に関与したのか、それとも有力な代替候補として権力を渡されたのかは明らかでない。
1080年、ボヘミア公ヴラチスラフ2世の娘ユディタと結婚し、隣国との関係改善を図った。外交は神聖ローマ帝国との協調へ傾き、皇帝ハインリヒ4世の上位権を認めた。兄が重んじたハンガリーとの同盟を捨て、教皇に反対する陣営へ加わった。またボヘミアへのシロンスクに関する貢納を再開した。クラクフとチェシンはボヘミアに渡り、ルブシュはドイツ、東のプシェムィシルはハリチ・ルーシの手に落ちた。1085年に皇帝がヴラチスラフへ王号を与えても、ヴワディスワフは自らの王位を求めなかった。ポーランドの有力者たちは、ハンガリーへ亡命していた甥ミェシュコを呼び戻すよう公に迫った。甥は叔父の権威を認め、後継順位の第一位を得る代わりに、当面の支配権要求を退いた。ズビクニェフの出生に教会法上の問題があったため、公はこの条件を受け入れた。
ユディタとの間に次男ボレスワフが生まれると、後継争いの情勢も変わった。ユディタの死後、1088年とも1089年ともされる時期、ヴワディスワフは皇帝ハインリヒ4世の妹ユーディトと再婚した。彼女はハンガリー王シャラモンの未亡人であり、この婚姻で帝国との関係はさらに密接になった。この再婚ではソフィア、アグニェスカら三人の娘をもうけた。1089年、後継者とされていたミェシュコが不可解な状況で死去した。宮中伯シェチェフと新たな公妃が毒殺を命じた可能性も指摘されるが、確定していない。ほどなくズビクニェフはドイツへ送られ、クヴェードリンブルク修道院に入れられた。公には長男を聖職に就かせ、継承の可能性を奪う意図があったとされる。
名目上の君主はヴワディスワフであったが、国内では有力者の力が増し、特にシェチェフが国政の実権を握った。この権力移動で利益を得られなかった諸侯は、宮中伯の政権を好意的には見なさなかった。1090年、シェチェフの率いる軍はグダニスク周辺のポモジェを一時制圧した。主要都市に守備隊を置き、他の町を焼いて抵抗を防ごうとしたが、数か月後には現地の有力者が反乱を起こし、ポーランドから再び独立した。シェチェフの強権的な統治への反感は公にも向けられ、人々の国外流出が広がった。1093年にはシロンスクでも反乱が起きた。晩年には息子ズビクニェフとボレスワフの間で継承をめぐる争いが生じ、国は事実上二人に分割された。ヴワディスワフは1102年6月4日に死去し、プウォツク大聖堂に葬られた。娘アグニェスカは、後にクヴェードリンブルクやガンダースハイムの女子修道院長となった。
同じ年に亡くなった人物
- エティエンヌ1世 (ブルゴーニュ伯) (1102年没)
- エティエンヌ2世 (ブロワ伯) (1102年没)
- アルベルトゥス (対立教皇) (1102年)
- ケルボガ (1102年)
- アルベール3世 (ナミュール伯) (1102年没)
同じ地域に関係する人物
- Ester Rachel Kaminska (1925年没)
- Hanka Bielicka (2006年没)
- ウワディスワフ・シュピルマン (2000年没)
- ヤン・マチュルスキ (2008年没)
- ミハウ・カレツキ (1970年没)