HISTORICAL PERSON · 1102年没

エティエンヌ2世 (ブロワ伯)

ブロワ伯。第1回十字軍を率いた一人だったが途中で離脱し帰国、妻の圧力で再び参加した1101年の十字軍でも敗れ、翌年ラムラの戦いで戦死した。

生涯
1102年没
死亡地
イスラエル(中央地区 / ラムラ)
出生地
—
出典
世界地図
イスラエル(中央地区)

伝記

エティエンヌ2世は、1045年、ブロワ伯ティボー3世とガルザンド・ド・メーヌの子として生まれた。エティエンヌ=アンリとも呼ばれ、賢明な者、あるいは平和を好む者という異名を持つ。1074年から父に実際の統治を任され、1077年にはシャンパーニュ伯と呼ばれた例もある。1080年、ノルマンディー公でイングランド王でもあったウィリアム征服王の娘アデルと結婚した。アデルの母はフランドルのマティルダであり、夫妻は八人の子をもうけた。ブレトゥイユでの婚姻が翌1081年にシャルトルで確認されたともされる。1089年、父の死によって正式に伯となり、ブロワ、シャトーダン、シャルトル、モーなどを治めた。異母弟ウードはトロワ伯領を受け継いだ。エティエンヌはプロヴァン、モントゥロー、シャトー=ティエリなどにも領地を持っていた。

第1回十字軍には、ノルマンディー公ロベールとともに参加した。1097年のニカイア攻囲戦では軍評議会の長を務め、遠征の進み具合を妻アデルへ熱心に書き送った。こうした夫妻間の手紙は二通が伝わる。ところが長期化したアンティオキア包囲では、十字軍は厳しい状況に置かれた。1098年、エティエンヌは戦線を離れ、東ローマ皇帝アレクシオス1世へ援助を求める役目を担ったともされる。しかし皇帝から軍事・補給面での支援は得られず、アナトリアの不安定な状況の中で単独帰還することも難しかったため、故国へ戻ったという。一方では包囲戦に見切りをつけた離脱と受け止められた。十字軍はその出発の翌日にアンティオキアを落とし、やがてエルサレムの征服にも成功した。

エルサレムまで進むという誓いを果たさずに帰ったエティエンヌには、臆病者だという非難が向けられた。妻アデルの出迎えも冷ややかで、征服王の娘である自分が臆病者の妻になったことを憤ったとされる。アデルは夫に評判を取り戻すよう説き、再び聖地へ向かわせた。1101年春、エティエンヌは新たな十字軍に加わった。この遠征には、前の十字軍を途中で離れた諸侯たちも参加していた。しかしアナトリアでムスリム諸勢力の連合軍に敗れ、軍は壊滅した。エティエンヌら生存者は海路でコンスタンティノープルへ逃れ、そこから船で聖地へ入った。1102年にはエルサレム王国に滞在し、ファーティマ朝とのラムラの戦いに参加した。3月19日、57歳で命を落としたとされる。捕らえられた後に斬首されたという伝承もある。

エティエンヌとアデルの子のうち、ギヨームは精神上の問題を理由に相続から外されたが、シュリー領主の相続人と結婚して子孫を残した。ブロワなどの伯領は息子ティボーが継ぎ、シャンパーニュ伯にもなった。娘マティルドは1115年にチェスター伯リチャード・ダヴランシュと結婚し、1120年のホワイトシップ遭難で夫とともに水死した。息子エティエンヌはモルタン伯となった後、1135年にイングランド王スティーブンとして即位した。別の息子アンリはグラストンベリーの修道院長、さらにウィンチェスター司教を務めた。エマという庶子もいたとされたことがあるが、その血縁は確かではなく、ブロワ家と異なる家系に属すると考えられている。

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