伝記
ウード1世は、1058年に生まれたブルゴーニュ公家の貴族である。赤公、あるいはボレルという呼び名でも知られる。父はアンリ、祖父はブルゴーニュ公ロベール1世で、母はシビーユであった。アンリの次男にあたり、後にポルトガル伯となるアンリも兄弟である。1078年にはフランス王フィリップ1世を助け、ル・ピュイゼのユーグ1世と戦った。翌1079年、兄ユーグ1世が公位を退き、クリュニーでベネディクト会の修道士となると、ウードがその後を継いでブルゴーニュ公となった。
1080年ごろ、ブルゴーニュ伯ギヨーム1世とエティエネットの娘シビーユと結婚した。妻はマオーとも呼ばれる。二人の間にはエレーヌ、フロリーヌ、ユーグ、アンリが生まれた。エレーヌはトゥールーズ伯ベルトランの妻となり、後にポンチュー伯ギヨーム3世と再婚する。フロリーヌはデンマーク王子スヴェンと結婚し、息子アンリは聖職者となった。1087年、ウードはイベリア半島へ赴くフランスの遠征に参加した。これはサグラハスの戦いの後に始まった遠征で、決着のつかなかったトゥデラ包囲に至った。同地への遠征に際して、トゥールニュのサン・フィリベール修道院の財産を留め置いていたことも認めている。この修道院は、レオン・カスティーリャ王アルフォンソ6世の妃である叔母コンスタンスが保護していた。
1097年、カンタベリー大司教アンセルムスがローマへ向かう途中、ウードの領地を通過したときの逸話が伝わる。ウードは大司教の一行が財宝を持っていると見込み、待ち伏せして奪おうとしたという。近づいて大司教はどこかと尋ねると、アンセルムス自身が進み出て、公爵を抱擁させてほしいと申し出た。意表を突かれたウードはその抱擁を受け入れ、自らを大司教の慎ましいしもべと述べたとされる。この出来事はアンセルムスの伝記を書いたエドメルが目撃したものとされ、領内の旅人を脅かす公爵という評判とともに伝えられている。
1101年、ウードは十字軍へ出発した。出立にあたってモレーム修道院へ寄進し、同院のために遺言を作った。また、ディジョンのサン・ベニーニュとジュヴレ=シャンベルタンの小修道院でも、権利を放棄する文書に署名した。遠征は不首尾に終わり、ウードは小アジアで没した。死地はキリキアのタルススとされるが、没年には1101年、1102年、1103年の異説がある。1103年3月23日を命日とする伝承もある。公位は息子ユーグ2世が継承した。
同じ年に亡くなった人物
- ギータ・オブ・ウェセックス (1103年(推定))
- マグヌス3世 (ノルウェー王) (1103年)
- ウンベルト2世・ディ・サヴォイア (1103年没)
- エーリク1世 (デンマーク王) (1103年没)
- ハインリヒ1世 (アイレンブルク伯) (1103年没)
同じ地域に関係する人物
- タルススのヘルモゲネス (300年没)
- Athenodoros Cananites (紀元前100)
- タルススのアンティパトロス (紀元前130年没)
- ユーグ1世 (ヴェルマンドワ伯) (1101年没)
- Ahmet Kirecci (1979年没)