伝記
李常傑は、一〇一九年に生まれ、李朝大越の太宗・聖宗・仁宗の三代の君主に仕えた宦官・武将である。原名は呉俊、常傑は字であった。都の昇龍の太和坊に生まれたとも、細江苟屚県から同坊へ移ったともいわれる。呉朝を興した呉権の末裔で、使君の呉昌熾の曾孫にあたるとされる。父の呉安語は李朝の郎将であった。幼少から騎射と兵法を学び、一〇三六年には亡父の同僚の計らいで騎馬校尉に任じられた。一〇三九年に去勢して宦官となり、一〇四一年に皇宮へ入って侍衛などを務めた。一〇五四年には聖宗の即位を助けた功績で昇進し、一〇六一年には清華や乂安などの察訪使となって、芒族の反乱を鎮めた。
一〇六九年、聖宗のチャンパ親征で大将軍として戦い、敗走するルドラヴァルマン三世を追った。五月には真臘の国境まで追い詰めて捕らえ、謝罪とデリー、メリー、ポー・トリンの三州の割譲を受け入れさせたうえで解放した。凱旋後は輔国太尉や開国公など多くの官位を受け、帝の義弟として皇族に列する栄誉も得た。チャンパで内乱が起こり、ルドラヴァルマン三世が一〇七四年に大越へ亡命すると、その復位を助けたともされる。翌年には再び南へ兵を率い、チャンパの新たな王と戦った。
同じ一〇七五年、北宋の王安石が大越への派兵を提案した。大越側も宋南部の造船や水戦訓練、国境付近での貿易禁止を知り、先制攻撃を決めた。十月、大越軍は陸路と海路に分かれて進み、李常傑は海上から欽州、廉州へ攻め込んだ。軍は王安石の新法に苦しむ民を救うとする檄文を掲げたが、侵攻地では破壊と殺戮を行った。陸軍が攻めた邕州は四十二日間の籠城の末に陥落し、三州の住民が捕虜として連れ去られた。宋は反撃の準備を進め、チャンパやクメールにも使者を送り、大越を挟撃しようとした。
一〇七六年三月にチャンパが参戦すると、李常傑は再び南へ向かった。勝利は得られなかったが、以前に獲得した三州などへ大越の住民を入植させた。軍を引き揚げた後は宋軍の来襲に備え、如月江南岸に歩兵を配し、川沿いに約百キロメートルの防塁と竹垣を築いた。同年十二月、郭逵らは精鋭歩兵十万、軍馬一万、人夫二十万を率いて侵攻した。李常傑は四百隻の軍船を並べて渡河を阻んだ。戦いが長引く中で大越軍の士気は衰え、宋軍も病気による損失に苦しんだ。一〇七八年には和平の機運が生まれ、大越は象を贈り、宋の占領した地域の返還を求めた。宋は翌年から一〇八四年にかけて占領地を返し、大越も宋人捕虜を返還して、両国の和議が成立した。
戦後は軍功によって爵位を受け、国政にも携わった。悪事を抑え、訴訟でむやみに罪を課さず、農政にも気を配る統治を行ったとされる。仏教への信仰も深く、老僧のために寺院を建てた。朝廷に背いてチャンパへ亡命した李覚は、同国の王ジャヤ・インドラヴァルマン二世に、大越へ割譲した三州の奪回を勧めた。一一〇四年二月、仁宗は高齢の李常傑に再征を命じた。李常傑はチャンパ軍を破って三州を回復した。翌一一〇五年六月に死去し、越国公などを追贈された。食邑と爵位は弟の李常憲が継いだ。死後、昇龍太和坊の住民は福をもたらす神として祀り、後の王朝でも信仰が続いた。
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