伝記
ベンノは、ヒルデスハイムに生まれ、1066年にマイセン司教へ任じられた聖職者である。幼少期の詳しいことは分かっていない。ヴォルデンベルク家などザクセンの貴族の出で、故郷の聖ミヒャエル修道院で学んだ可能性がある。確かに知られるのはゴスラーの参事会員を務めていたことで、その後、国王ハインリヒ4世によってマイセン司教に指名された。1073年にザクセンで反乱が起こると、ベンノもこれを支持する側に立った。ただし反乱の中で大きな役割を果たしたわけではなかったとされる。1075年にはハインリヒに追放されたが、翌年には司教座への帰還を許された。
聖職者の任命をめぐって皇帝と教皇が争った叙任権闘争では、ベンノは教皇グレゴリウス7世を支持した。1077年には対立王ルドルフの選出に加わったともいわれる。ルドルフの死後は新たな対立王ヘルマン・フォン・ザルムへ支持を移したため、1085年のマインツ教会会議で破門され、司教職も奪われた。窮地に立ったベンノは、ハインリヒが対立教皇クレメンス3世として擁立していたラヴェンナ大司教グイベルトを頼った。自らの過ちを悔いて認めることで赦免を得て、国王に宛てた推薦状も与えられた。この推薦によって再び司教座へ復帰した。ザクセン人との和平のために影響力を使うと約束したらしいが、その後も一貫して皇帝側にとどまったわけではなかった。
1097年、ベンノは再び教皇派へ戻り、ウルバヌス2世を正統な教皇と認めた。この後の活動については確かなことが少なく、晩年の布教、教会建設、教会音楽への熱意を語る逸話も、詳しい裏付けを欠く。教区ではグレゴリウス7世の方針に沿った教会改革と、物質面の整備に取り組んだとされる。1106年6月16日に自然死した。13世紀以降、故郷ザクセンで崇敬を集め、中世後期を通じてその信仰が続いた。1460年にはヒルデスハイムの聖ミヒャエル修道院のベネディクト会士シュペーデルが最初の聖人伝を作った。15世紀末から16世紀初めには、マイセンの参事会員とザクセン公ゲオルクが列聖を求める運動を進めた。参事会側は地元の司教が聖人となる名誉を望み、公は教会改革の模範となる司教を求めていた。1512年にはヒエロニムス・エムザーの新たな聖人伝が刊行された。
1523年、教皇ハドリアヌス6世はベンノの列聖を認めた。宗教改革の論争ではその崇敬が両陣営の争点となり、ルターは聖人崇敬への批判の中でベンノを攻撃した。一方、カトリックの改革を求める人々は正統信仰の模範とした。1539年にマイセンの墓がプロテスタントの群衆によって荒らされると、やがてヴィッテルスバッハ家はベンノをミュンヘンと古バイエルンの守護聖人とした。記念日は6月16日で、釣り人や織物職人の守護者でもある。図像では書物や、口に鍵をくわえた魚を伴う。これは、ハインリヒが破門された際、司教が大聖堂の鍵をエルベ川へ投げさせたが、後に漁師が魚の腹から鍵を見つけて返したという伝説に由来する。
同じ年に亡くなった人物
- ユースフ・イブン=タシュフィーン (1106年没)
- ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝) (1106年没)
- 源義家 (1106年没)
- ダゴベルト (1106年(推定))
- マグヌス (ザクセン公) (1106年没)
同じ地域に関係する人物
- ブレーメンのアダム (1080年代没)
- ギュンター・ラミン (1956年没)
- ヨハン・シャイン (1630年没)
- ヨハン・ゲオルク4世 (ザクセン選帝侯) (1694年没)
- ハインリヒ4世 (ザクセン公) (1541年没)