伝記
米芾は、北宋の書家・画家であり、書画の収集と鑑定にも携わった人物である。1051年、襄州襄陽県に生まれた。字は元章、襄陽漫仕や海嶽外史などと号し、書斎を宝晋斎と呼んだ。家の祖先は西域に住むソグド人とされ、中国に移って米姓を名乗ったという。母の閻氏が英宗皇后の乳母を務めていたため、科挙を経ずに官職についた。ただし、科挙の学問に従うことを好まなかったともいわれる。地方の低い官職を転々とし、その赴任先は南方が多かった。江南の山水を愛し、のちに潤州に住まいを定めた。書の修業では、初めに唐の顔真卿や褚遂良を学び、やがて東晋の王羲之や魏・晋の書家へと研究の範囲を広げた。
1083年には行書の碑文『方円庵記』を書いた。王羲之・王献之の筆法を学び込んだ跡の見える作品である。1088年、湖州知事の林希に招かれ、その求めに応じて『蜀素帖』を揮毫した。蜀で織られた絹の巻物に、自作の詩八首を七十一行で書いたもので、縦横の界線も織り込まれていた。粗い絹目の上に生まれる墨の潤いと渇きが、文字に豊かな変化を与えている。同じ年の『苕渓詩巻』は、苕渓に遊ぶ際に友人たちへ贈ったもので、五言律詩六首を三十五行に収めた。また『李太師帖』では、李瑋の所蔵する『晋賢十四帖』を見て、それぞれの筆跡について論じている。自ら書くだけでなく、古い作品を観察し、比較して言葉にする営みも重ねていた。
蘇軾や黄庭堅と親しく交わり、年少者としてかわいがられた一方、二人の書を徽宗の前で遠慮なく批評したという。古書や名画に加えて奇石も集め、名石に向かって拝み、兄と呼びかけたと伝えられる。唐代風の服装を守るなどの振る舞いもあって、米顛、米痴と呼ばれた。書風は、壮年には古典を集め合わせたようだとして「集古字」と評されたが、晩年には誰の書に基づくのかわからない独自のものになったと、自著『海嶽名言』に記している。四十代後半の作と考えられる『吾友帖』にも、若い時期の模倣的な硬さを離れた筆致が見られる。行書・草書を多く残したが、小楷にも自信を持ち、大事にするあまり多くは書かなかったという。
1104年、宮廷に書画学が設けられると書画学博士となり、徽宗の側近で鑑定に当たった。のちに礼部員外郎に抜擢され、官職にちなんで米南宮とも呼ばれた。皇帝の膨大な収蔵品を利用し、名跡を臨模するとともに、収集・鑑賞した作品について多くの記録を残した。その模写は真跡と見分けがつかないほど精密だったと伝えられる。1106年に知淮陽軍となり、翌1107年、その役所で五十七歳の生涯を終えた。画では米法山水の創始者とされ、篆刻を作家自身が行い始めた人物とも目される。書は蔡襄・蘇軾・黄庭堅とともに宋の四大家に数えられ、真跡のほか、集帖や専帖に刻された形でも伝わる。『方円庵記』の書風は江戸時代の日本でも珍重され、頼山陽や市河米庵らが学んだ。
『苕渓詩巻』の真跡は満州国崩壊時に略奪され、寸断されたが、1963年に発見されて復元修理を受けた。現在は北京の故宮博物院に収蔵されている。『蜀素帖』は台北の国立故宮博物院に、『行書三帖』と最晩年の『虹県詩巻』は東京国立博物館に伝わり、『草書四帖』は大阪市立美術館に収蔵されている。
同じ年に亡くなった人物
- ライムンド・デ・ボルゴーニャ (1107年没)
- クルチ・アルスラーン1世 (1107年没)
- ジャヤーヴァルマン6世 (1107年)
- 程頤 (1107年没)
- エドガー (スコットランド王) (1107年没)