HISTORICAL PERSON · 1107年没

程頤

北宋の儒学者。兄の程顥とともに「二程子」と呼ばれ、朱子学の源流の一人。「理一分殊」を説き、「性即理」「格物」の発想は朱熹に継がれた。哲宗の講官となったが、蘇軾らと争い朝廷を追われた。

生涯
1107年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(湖北省 / 黄陂区)
出典
世界地図
中華人民共和国(湖北省)

伝記

程頤は、1033年に生まれた中国北宋の儒学者である。字は正叔、伊川先生とも称された。家は河南につながるが、祖父の程遹は黄州黄陂の県令となって現地で死去し、幼かった父の程珦もそのまま黄陂に住んだ。程頤と兄の程顥は、父が黄陂の県尉であった時期に生まれた。張載の甥にあたり、邵雍とも親交を結んだ。兄弟は14歳ごろから周敦頤に学んだ。程頤は1056年に太学へ入り、24歳ごろには胡安定の教えを受けた。人の本性を善と捉え、学問と修養によって誰もが聖人になれると論じた『顔子好学論』によって師に認められ、教官に推薦された。同じころ皇帝へ上書し、理想の政治を実現する志も示した。二十代後半の進士試験については、学位を得たとも、最終試験で不合格になったとも伝わる。

その後は洛陽で学び教え、高い官職への招きをたびたび断った。直覚を重んじる兄とは異なり、事物の根拠を理によって捉えようとした。陰と陽の二気そのものを宇宙の根本である道とするのではなく、道は陰陽の働きを成立させる原理であり、同時に個々の現象の内にも理として存在すると説いた。気を物質的なものと考える一方、その存在や運動の根拠として理を認めたのである。一つの事物にある理は宇宙全体の理と同じであるとし、この考えは理一分殊と呼ばれる。道を道徳の根源とも考え、個々の物の理を道につなげることで、その尊厳を保とうとした。人の本性も理であり、物に潜む理を究めれば、本来の善を取り戻せると考えた。『大学』の格物を、物の理を究めることと理解したのもこの立場による。学問への厳しい姿勢を示す話として、弟子入りを願う楊時と游酢が、門前の雪の中で長く待ったという逸話が残る。学びに励み、師を敬う態度を示す手本として語り継がれた。また寡婦の再婚には厳しく、貧困で飢えることより節義を失うことを重大とした。ただしこの要求は主に士大夫の層へ向けられ、農民の暮らしには限界があることも認めていた。政治では王安石の改革策に反対した。

改革派が政権を離れた後、1086年、司馬光らの強い推薦を受け、哲宗に儒学を講じる侍講となった。しかし謹厳で妥協を嫌う言動が宮廷内の摩擦を生み、特に蘇軾やその門下の人々と対立した。ほどなく朝廷を去り、晩年には政治上の不遇が続いた。1097年、敵対する人々によって教えを禁じられ、財産を没収され、涪州への左遷も経験した。三年後には赦されたものの、排斥される立場は変わらず、1103年に著作が再び禁止された。1106年にようやく赦免を得たが、翌1107年10月5日に死去した。主な著作には『周易程氏伝』『経説』がある。

兄弟は二程子と呼ばれ、その学問は後の朱子学や陽明学の源流の一つとなった。とりわけ程頤の理と気を分ける考え、本性を理とする説、格物を理の探究とする見方は朱熹へ受け継がれた。程顥・程頤・朱熹の学問は程朱学派とも呼ばれる。朱熹は兄弟を周敦頤、邵雍、張載、司馬光とともに六人の大師に数えた。1452年には、程頤ら儒学者の子孫に五経博士の称号が与えられた。寡婦の貞節を重んじる考えも後世に影響し、明清期には再婚を避ける慣行が広まり、多くの寡婦が貧困や孤独に苦しんだ。明代には寡婦の自死も増えたとされる。

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