伝記
ライムンド・デ・ボルゴーニャは、1070年ごろ、ブルゴーニュ伯領のブザンソンに生まれた貴族である。父はブルゴーニュ伯ギヨーム一世、母はエティエンヌで、三男であった。フランス名ではレーモン・ド・ブルゴーニュという。兄には伯位を継いだルノー二世とエティエンヌ一世がおり、弟はのちの教皇カリストゥス二世となった。イベリア半島へ進んだエンリケ・デ・ボルゴーニャとは従兄弟で、カスティーリャ王アルフォンソ六世の妃コンスタンサとも親族関係にあった。
1086年、アルフォンソ六世の軍はサグラハスの戦いでムラービト朝に敗れ、翌年、国外に援助を求めた。ライムンドがレオン王国へ赴いた時期は定かではなく、姉妹シビラの夫であるブルゴーニュ公ウード一世と同行したとも考えられている。アルフォンソ六世は、軍事行動を支えた外国人の指導者たちに、娘との婚姻と領地の統治権を与えた。ライムンドも王の嫡出の娘ウラカを妻に迎えた。婚姻の年は1087年とも、1091年から1092年の間ともいわれる。後者ならば、1080年ごろ生まれたウラカは十歳か十一歳であった。1091年ごろには、ミーニョ川以北のガリシアと、同川からコインブラまでのポルトガル地域の統治を任された。さらに、サラマンカ、アビラ、セゴビアを中心に、ドゥエロ川と中央山脈の間の土地へ人々を再入植させる事業を指揮した。1092年には、王の権威のもとにガリシアを治める女婿の伯として、その地位を示していた。
1093年、王妃コンスタンサが没すると、ライムンドはサンタレン、シントラ、リスボンの防衛を担当した。その管轄は現在の半島北西部だけでなく、タホ川に至るポルトゥカーレの地域にも及んだ。これらの都市は前年にバダホスのイスラム勢力から獲得されたものである。サモラ、コリア、グラハル・デ・カンポスなどの統治にも当たり、他のレオン貴族を上回る権力を持った。自らの称号にも、全ガリシアの伯、領主、公など、さまざまな表現を用いた。一方、王に男子サンチョが生まれると、ウラカは王位の継承順位を下げられた。1094年には王がベルタと再婚した。ポルトゥカーレとコインブラの伯位は、1096年にエンリケへ移った。エンリケはウラカの異母妹テレサを妻に迎えた、アルフォンソ六世のもう一人の女婿である。この時期、宮廷での影響力を弱めたライムンドは、1096年から1097年の間に、従兄弟エンリケと、権力や王の財宝を分け合い、相互に支援する協定を結んだ。二人の親族であるクリュニー修道院長ユーグも、この協定を承認したという。
ウラカとの間には娘サンチャと息子アルフォンソが生まれ、息子の誕生は1105年であった。ライムンドは1107年、妻が王位を得る前に没したため、女王の夫として即位することはなかった。没日は五月二十七日とも九月二十日ともいわれ、グラハル・デ・カンポスで死去したとされる。翌1108年、王子サンチョがウクレスの戦いで戦死すると、ウラカが再び王位継承者となった。1109年に父王が没し、ウラカは女王となる。その死後、ライムンドとの間の息子がアルフォンソ七世として即位し、ボルゴーニャ朝を開いた。
同じ年に亡くなった人物
- ジャヤーヴァルマン6世 (1107年)
- 米芾 (1107年没)
- 堀河天皇 (1107年没)
- エドガー (スコットランド王) (1107年没)
- クルチ・アルスラーン1世 (1107年没)
同じ地域に関係する人物
- ガルシア・サンチェス (カスティーリャ伯) (1029年没)
- アルフォンソ4世 (レオン王) (933年没)
- ラミロ2世 (レオン王) (951年没)
- エンリケ (ポルトゥカーレ伯) (1112年没)
- クリストバル・アルフテル (2021年没)