HISTORICAL PERSON · 1907年没

ピエール・ジャンサン

フランスの天文学者。1868年にインドでの日食観察で太陽光のヘリウムのスペクトル線を発見し、日食を待たずにプロミネンスを観測する方法も見つけた。1874年に金星の日面通過を観測しに来日した。

生涯
1907年没
死亡地
フランス共和国(オー=ド=セーヌ県 / ムードン)
出生地
フランス共和国(パリ)
出典
世界地図
フランス共和国(オー=ド=セーヌ県)

伝記

ピエール・ジュール・セザール・ジャンサンは、1824年2月22日にパリで生まれたフランスの天文学者である。父は有名な音楽家であった。事故のために歩くことに困難があり、学業が遅れたという。数学と物理学を学び、リセ・シャルルマーニュなどで教師を務めたが、その生涯の大部分は、天文観測隊の隊員として世界を飛びまわるものとなった。1859年9月19日にフィリベルト・アンリエット・フォレスティエと結婚した。1860年に「眼の媒質における暗い放射熱の吸収」についての論文で物理学の博士号を取得し、1865年に建築学校の物理学教授となった。キルヒホフとブンゼンの分光学の仕事に惹かれ、プリズム分光器を天文学に結びつけた最初期の一人となった。1863年に月に大気がないことを確かめ、1867年には火星の大気に水蒸気が含まれることを確認した。

1857年から数度、磁気偏角の研究のためにペルーに出かけた。日食を追って、各地へ観測に出かけ、1867年にイタリアのトラーニ、1868年にインド南部のグントゥール、1870年にアルジェ、1875年にタイ、1883年にカロリン諸島、1905年にはスペインのアルコセーブルを訪れている。1868年8月18日、経度局に派遣されたインドの日食観測で、新しい元素のスペクトルを発見した。日食を待たずに太陽のプロミネンスを観測する方法も見いだした。同年10月20日に、イギリスのロッキャーが太陽光スペクトルの観測で同じスペクトルを発見している。この元素は、後にロッキャーとフランクランドによってヘリウムと名づけられた。1868年にはレジオン・ドヌール勲章のシュヴァリエとなった。

1870年、普仏戦争でプロシア軍に包囲されたパリから、気球ヴォルタ号で脱出し、12月22日の日食をアルジェリアのオランで観測しようとしたが、曇天のために見られなかった。この観測は、気球によるパリ脱出で、唯一の科学的な使命となった。1874年には金星の日面通過の観測のために日本を訪れ、12月9日に観測に成功した。長崎市の金比羅山に観測記念碑がある。このとき、リボルバー拳銃の機構に着想を得て、金星の通過を連続して撮影する「写真銃」をつくり、最初期の映画の一つ『金星の通過』を生み出した。この装置は、1882年にマレーが写真銃を考案するきっかけにもなった。1876年にはランフォード・メダルを受賞した。

パリの物理天文学の天文台の設立を推し進め、それはムードンに設けられることになった。1875年にムードン天文台の台長となり、ムードン城の修復計画を示して、1876年から観測機器を設置し、百万フランを超える資金を得て建物を再建した。大きな丸屋根をもつこの天文台は、太陽研究の基準的な研究所の一つとして残っている。1884年には国際子午線会議に参加し、翌年に報告書を発表した。1888年から、年齢と身体の不自由にもかかわらず、モンブランに3度登り、頂上近くに大気の影響を減らす観測所を設けた。1893年、69歳のときには、頂上付近で4日にわたって観測を行った。この観測所は15年間存続し、のちに氷河に呑み込まれた。1895年から1897年にはフランス天文学会の会長を務めた。1907年12月23日にムードンで没し、ペール・ラシェーズ墓地に葬られた。火星のクレーターに彼の名が付けられている。

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