伝記
ピエール・ジュール・セザール・ジャンサンは、1824年2月22日にパリで生まれたフランスの天文学者である。父は有名な音楽家であった。事故のために歩くことに困難があり、学業が遅れたという。数学と物理学を学び、リセ・シャルルマーニュなどで教師を務めたが、その生涯の大部分は、天文観測隊の隊員として世界を飛びまわるものとなった。1859年9月19日にフィリベルト・アンリエット・フォレスティエと結婚した。1860年に「眼の媒質における暗い放射熱の吸収」についての論文で物理学の博士号を取得し、1865年に建築学校の物理学教授となった。キルヒホフとブンゼンの分光学の仕事に惹かれ、プリズム分光器を天文学に結びつけた最初期の一人となった。1863年に月に大気がないことを確かめ、1867年には火星の大気に水蒸気が含まれることを確認した。
1857年から数度、磁気偏角の研究のためにペルーに出かけた。日食を追って、各地へ観測に出かけ、1867年にイタリアのトラーニ、1868年にインド南部のグントゥール、1870年にアルジェ、1875年にタイ、1883年にカロリン諸島、1905年にはスペインのアルコセーブルを訪れている。1868年8月18日、経度局に派遣されたインドの日食観測で、新しい元素のスペクトルを発見した。日食を待たずに太陽のプロミネンスを観測する方法も見いだした。同年10月20日に、イギリスのロッキャーが太陽光スペクトルの観測で同じスペクトルを発見している。この元素は、後にロッキャーとフランクランドによってヘリウムと名づけられた。1868年にはレジオン・ドヌール勲章のシュヴァリエとなった。
1870年、普仏戦争でプロシア軍に包囲されたパリから、気球ヴォルタ号で脱出し、12月22日の日食をアルジェリアのオランで観測しようとしたが、曇天のために見られなかった。この観測は、気球によるパリ脱出で、唯一の科学的な使命となった。1874年には金星の日面通過の観測のために日本を訪れ、12月9日に観測に成功した。長崎市の金比羅山に観測記念碑がある。このとき、リボルバー拳銃の機構に着想を得て、金星の通過を連続して撮影する「写真銃」をつくり、最初期の映画の一つ『金星の通過』を生み出した。この装置は、1882年にマレーが写真銃を考案するきっかけにもなった。1876年にはランフォード・メダルを受賞した。
パリの物理天文学の天文台の設立を推し進め、それはムードンに設けられることになった。1875年にムードン天文台の台長となり、ムードン城の修復計画を示して、1876年から観測機器を設置し、百万フランを超える資金を得て建物を再建した。大きな丸屋根をもつこの天文台は、太陽研究の基準的な研究所の一つとして残っている。1884年には国際子午線会議に参加し、翌年に報告書を発表した。1888年から、年齢と身体の不自由にもかかわらず、モンブランに3度登り、頂上近くに大気の影響を減らす観測所を設けた。1893年、69歳のときには、頂上付近で4日にわたって観測を行った。この観測所は15年間存続し、のちに氷河に呑み込まれた。1895年から1897年にはフランス天文学会の会長を務めた。1907年12月23日にムードンで没し、ペール・ラシェーズ墓地に葬られた。火星のクレーターに彼の名が付けられている。
同じ年に亡くなった人物
- 秋瑾 (1907年没)
- ヴィルヘルム・アドルフ・ツー・ヴィート (1907年没)
- アンリ・モアッサン (1907年没)
- ジャン・カジミール=ペリエ (1907年没)
- ヤコプ・フルト (1907年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャン・バゼーヌ (2001年没)
- モーリス・アレ (2010年没)
- ジャン=ピエール・ヴェルナン (2007年没)
- アリストテレス・オナシス (1975年没)
- ピエール・サミュエル (2009年没)