伝記
クララ・ヒトラーは、旧姓をペルツルといい、1860年8月12日にオーストリアで生まれた、アドルフ・ヒトラーの母である。出生地は、ヴァイトラとも、その近郊のシュピタルともされる。父ヨハン・バプティスト・ペルツルは小さな農家で、母ヨハンナ・ヒードラーとの間に11人の子が生まれたが、幼児期を生き延びたのは、クララを含む3人だけで、クララが長女であった。母方の祖父ヨハン・ネーポムク・ヒードラーの兄弟ヨハン・ゲオルク・ヒードラーは、アロイス・ヒトラーの母マリア・アンナと結婚していた。アロイスの洗礼記録の父の欄は空白で、実の父は、ゲオルクではなくネーポムクであった可能性も指摘されている。いずれにしても、クララとアロイスは近い親戚であり、戸籍上は、アロイスにとってクララは姪にあたる。
1876年、16歳のクララは、叔父アロイスと最初の妻アンナ・グラスルの家に、住み込みの家政婦として働き始めた。アロイスは1880年にフランツィスカ・マツェルスベルガーと事実上の結婚生活を始めたため、クララは一時解雇されたが、1883年にフランツィスカが肺病にかかると呼び戻された。このころからクララはアロイスと関係を持つようになり、1884年にフランツィスカが死亡すると、すでに妊娠していたクララは、アロイスと結婚することになった。二人は近い親戚だったため教皇の許可が必要で、1884年に許可が下りたのち、1885年1月17日に結婚した。この年の5月に最初の子グスタフが生まれ、翌年には二人目のイーダ、1887年にはオットーが生まれたが、オットーは生後数日で亡くなり、グスタフとイーダもジフテリアで間もなく世を去った。
1889年4月20日に生まれたアドルフを、クララは病弱な子だと考え、いつ亡くなるかという不安を抱えていたという。その後、さらに二人の子を産んだが、成人したのはアドルフとパウラだけだった。1892年にアロイスの昇進で一家はパッサウに移り、1894年にエドムントが生まれた。1895年に農場を買って暮らし、1896年に末の娘パウラが生まれた。1898年にレオンディングに最後の家を買った。同年、エドムントが麻疹で亡くなり、アドルフが唯一の男子となった。クララは、先妻の子であるアロイスとアンゲラにも深い愛情を注いだが、アロイスは継母に無視されていると感じ、父の暴力にも耐えかねて、14歳で家出した。
1903年1月3日に夫が倒れて亡くなると、クララは、子供たちの面倒を見ながら過ごした。アロイスは息子が官吏になることを求めたが、アドルフは芸術の道を望んでいた。クララは当初、夫の望みに沿わせようとしたが、唯一の男子の望みに譲るようになった。1905年にはリンツのアパートに移り、1906年にはアドルフのウィーン行きの費用を出した。1907年1月に乳癌の手術を受け、治療にあたったのはユダヤ人の医師エドゥアルト・ブロッホで、アドルフは費用や治療の決定を引き受けた。しかしクララは、1907年12月21日にリンツで亡くなり、レオンディングで夫の墓の隣に葬られた。「物事を極めて慎重に処理できる主婦」であったと推測されている。ヒトラーは、癌で苦しむ母の姿を見て、自分も癌で死ぬという強迫観念を持つようになったと言われる。
同じ年に亡くなった人物
- イグナーツ・ブリュル (1907年没)
- エクトール・アンリ・マロ (1907年没)
- オーガスタス・セント=ゴーデンス (1907年没)
- ジョズエ・カルドゥッチ (1907年没)
- アルヌルフ・フォン・バイエルン (1907年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴィクトル・カプラン (1934年没)
- フランツ・レハール (1948年没)
- マリー・フォン・ザクセン=アルテンブルク (1818-1907) (1907年没)
- ベジアン・イドリツァイ (2010年没)
- オットー・レオドルター (2020年没)