伝記
ヒエロン2世は、第一次ポエニ戦争の時代にシラクサを支配した人物である。当初は僭主であったが、のちに民衆から王に擁立された。メッシーナを奪った傭兵集団マメルティニと対立し、戦闘で破ったものの、これがローマとカルタゴの軍事介入を招き、第一次ポエニ戦争の原因となった。紀元前215年ごろに没し、高齢であったとされ、92歳だった可能性が指摘される。
出自については、高貴なヒエロクレスの非嫡出子で、シラクサの僭主ゲロンの子孫とされる。幼いころ父が認知しようとしなかったが、ある前兆を見て将来の栄光を信じ、見捨てなかったという伝説が語られる。30歳のころエペイロス王ピュロスのシチリア遠征に従い、勇敢な戦士として名をあげた。ピュロスがシチリアを去った紀元前275年(紀元前276年とも)、軍隊によって総指揮官に任命され、現地に残った。また、シラクサで最も有力な市民レプティネスの娘と結婚して、社会的な立場を固めた。
そのころマメルティニが勢力を伸ばし、メッシーナを奪い、シラクサの領域にまで侵入してきた。ヒエロンは兵を再編して彼らを攻め、ミュライの近くなどで破ったが、カルタゴの干渉もあってメッシーナを落とすことはできなかった。のちに僭主としてシラクサに迎えられ、やがて王に選ばれたとされる。紀元前264年に再びマメルティニを攻めると、彼らはローマに支援を求めた。ヒエロンはカルタゴの将軍ハンノとともに戦ったが、ローマの執政官クラウディウス・カウデクスに敗れた。ローマとの条約で、タオルミナ以西のシチリア東岸の支配に限られ、多額の金銭の支払いと捕虜の解放も求められた。
しかしヒエロンは、紀元前215年に死去するまで、ローマに対して誠実な態度をとり続けた。ローマ軍の戦いにはしばしば兵力を提供し、強力な海軍を保った。第一次ポエニ戦争ではアグリゲントゥムの包囲などでローマ側に加わり、紀元前241年の講和交渉にも加わって、シラクサにも有利な結果を得た。ローマを訪れて栄誉をもって迎えられたとも、紀元前222年のガリア人に対する勝利の後に報われたともされる。ロドスが地震に襲われると援助を送り、オリンピアには大きな贈り物をした。また史上最大の船をつくらせて、プトレマイオス3世に贈った。国内では元老院と顧問を置き、ほとんど一市民のようにふるまって穏やかな統治を行ったとされる。シラクサは繁栄し、学校・神殿・祭壇など大規模な公共事業が行われた。一方で戦争への備えも怠らず、アルキメデスに機械の製作を命じた。親族に高名な学者アルキメデスがいるともされる。ヒエロンが金細工師に王冠の製作を頼んだところ、金をごまかしているのではないかと疑い、アルキメデスに真偽の判定を依頼した。難題に取り組んだアルキメデスは、解決策を思いつくと喜びのあまり「エウレカ」と叫びながら裸でシラクサの市内を駆け回ったという逸話が有名である。
第二次ポエニ戦争が始まった紀元前218年には、ヒエロンは執政官ティベリウス・センプロニウス・ロンギュスに艦隊を提供し、翌年のトラシメヌス湖畔の戦いの後には援助と黄金の勝利の女神像を送った。カンナエの戦いが、その援助が役立つ最後の機会となった。娘はデマラタとヘラクレアの二人で、それぞれシラクサの有力市民に嫁いだ。後継者は孫のヒエロニュモスであった。ヒエロンの死後、シラクサではカルタゴとの同盟を支持する派閥が優勢になった。
同じ年に亡くなった人物
- ゲロン (紀元前215)
- マルクス・アティリウス・レグルス (紀元前227年の執政官) (紀元前 215年)
- Achaeus (紀元前215)
同じ地域に関係する人物
- Hieronymus of Syracuse (紀元前213)
- ラナッサ (紀元前300)
- Ecphantus the Pythagorean (紀元前400)
- シュラクサイのディオン (紀元前354年没)
- エンゾ・マイオルカ (2016年没)