HISTORICAL PERSON · 紀元前213年没

プブリウス・フリウス・ピルス

パトリキ出身のローマの政治家・軍人。紀元前223年にフラミニウスと執政官を務め、インスブリ族に勝った後に召還の手紙を開封して凱旋式を実施。前216年に法務官、前214年に監察官となり在任中に死去した。

生涯
紀元前213年没
死亡地
—
出生地
イタリア共和国(ローマ県 / 古代ローマ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

プブリウス・フリウス・ピルスは、共和政ローマの貴族(パトリキ)出身の政治家・軍人である。紀元前223年に執政官、紀元前216年に法務官を務め、紀元前214年には監察官に就任したが、任期の途中、紀元前213年に没した。

出身のフリウス氏族は、ローマ第二の創建者といわれるマルクス・フリウス・カミッルスをはじめ、最高の官職に就いた者が多い古い名門であった。しかしフリウス・ピルス家からは、ピルス以前に政務官となった者はいなかった。父のプラエノーメン(個人名)はスプリウス、祖父はマルクスだが、名前のほかは何も分かっていない。ピルスには同名のプブリウスと思われる息子が一人おり、父の死去時にはまだ若かった。後世のフリウス・ピルス家、たとえば紀元前136年の執政官ルキウス・フリウス・ピルスとの関係は不明である。

紀元前223年、ピルスは平民出身のガイウス・フラミニウスとともに執政官に就いた。前々年に始まったガリア人の反乱は3年目に入っており、両執政官は北イタリアへ軍を進めた。ところが出征するとすぐに、元老院ではフラミニウスを解任する手立てが考えられた。フラミニウスは紀元前232年に護民官として、元老院に諮らず公共土地法を成立させ、反発を買っていたのである。元老院は、前年の執政官選挙は鳥占いに不備があって無効だとし、両執政官に帰還を求める手紙を送った。だがインスブリ族との戦いの準備が整っていたため、ピルスは戦いに勝ってから手紙を開封した。その後、命令に従ってローマへ戻り、執政官職を辞した。フラミニウスはこれを無視して作戦を続け、ローマで凱旋式を挙げてから辞任した。凱旋式の記録によれば、フラミニウスの凱旋式の2日後にピルスも凱旋式を行っている。

第二次ポエニ戦争が始まって3年後の紀元前216年、ピルスは外国人担当の法務官に就いた。この年、ローマはカンナエの戦いでハンニバルに大敗し、元老院は同僚のマニウス・ポンポニウス・マトとピルスに市の防衛を命じた。その後ピルスは海軍の指揮を命じられ、マルクス・クラウディウス・マルケッルスから艦隊を受け取ってアフリカ沿岸へ向かった。しかし沖合での戦闘で重傷を負い、シチリア属州のリリュバイウム(現在のマルサーラ)に戻った。

紀元前214年、マルクス・アティリウス・レグルスとともに監察官となった。両監察官は、ローマが直面した悲劇のさなかに国家への義務を十分に果たさなかった人々を厳しく調べた。カンナエの敗北後、若い新貴族の多くがイタリアからの脱出を企てており、財務官ルキウス・カエキリウス・メテッルスもその一人だった。監察官は彼らの財産を国庫に入れようとした。それでもメテッルスは翌年の護民官に選ばれ、就任するとすぐ両監察官を裁判にかけようとしたが、前例のないことだとして同僚の護民官に阻まれた。監察官は5年ごとに任期1年半で選ばれ、国勢調査の完了を示す清めの儀式を行う決まりであった。ピルスは翌年の初め、その儀式を行う前に死去し、慣例に従ってレグルスも辞任した。ピルスは終身の鳥占官でもあった。

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