HISTORICAL PERSON · 紀元前213年没

ティベリウス・センプロニウス・グラックス (紀元前215年、213年の執政官)

第二次ポエニ戦争期のローマの政治家・軍人で、紀元前215年と213年に執政官を務めた。「奴隷軍団」の優秀な指揮官として知られ、213年冬に不意打ちで殺されたが、ハンニバルは丁重に葬ったという。

生涯
紀元前213年没
死亡地
イタリア共和国(ポテンツァ県 / ルカニア地方)
出生地
—
出典
世界地図
イタリア共和国(ポテンツァ県)

伝記

ティベリウス・センプロニウス・グラックスは、第二次ポエニ戦争期の共和政ローマの政治家・軍人である。紀元前215年と213年に執政官を務め、紀元前213年に没した。父は同名のティベリウス・センプロニウス・グラックスで、のちの大グラックスの叔父にあたる。大グラックスの父はプブリウス・センプロニウス・グラックスである。

歴史に登場するのはカンナエの戦いの後である。紀元前216年にクルリス按察官の一人となり、3日間の祝祭を開催した。同じころ、独裁官となったマルクス・ユニウス・ペラのもとで騎士長官に指名された。独裁官とグラックスは新兵を募って4個軍団を編成し、なお兵が足りなかったため、志願した奴隷8000人を公費で武装させた。奴隷は身代金が安く済むので好ましく思われたという。さらにガリア人からも募兵し、死刑囚や借金で投獄されていた者のうち国家に奉仕する意思のある者には恩赦を与えて、6000人の兵を得た。こうして集めた軍勢を率い、カンパニアへ向かった。独裁官の軍は、ハンニバルに攻められていたカシリヌム周辺でカルタゴ軍と戦った。年が改まると、独裁官はグラックスに軍を預け、自分の不在中は軽率に動かないよう厳命してローマへ戻った。飢えに苦しむカシリヌムの現状と厳命のあいだで苦しんだグラックスは、戦わずに町を助ける方法として、ウォルトゥルヌス川を使い、三晩続けて食料を詰めた樽を流し込んだ。住民は喜んでこれを受け取った。しかし四晩目には樽が風と波で岸に打ち上げられて敵に見つかり、敵が警戒を強めたため、それ以上の補給はできなくなった。町は飢えに耐えかねて降伏した。

グラックスは執政官選挙で選ばれ、紀元前215年3月15日に就任した。同僚のルキウス・ポストゥミウス・アルビヌスは、ガリア・キサルピナで待ち伏せに遭い、就任前に戦死していた。人々は補充執政官としてマルクス・クラウディウス・マルケッルスを望んだが、貴族のあいだには両執政官が平民出身になることを警戒する声があった。グラックスはマルケッルスがカンパニアから戻るまで選挙を延期し、事態が落ち着くのを待った。マルケッルスは全会一致で選ばれたものの、落雷があり、鳥占官が選挙の不備を指摘したうえ、貴族が平民2名の執政官就任は初めてで神々が怒っていると触れ回ったため、辞任した。代わってクィントゥス・ファビウス・マクシムスが選ばれた。

グラックスは奴隷と同盟軍からなる軍団の司令官となり、ウォルトゥルヌス川を渡ってリテルヌム付近に陣を張り、兵を訓練して規律を整えた。カンパニア人の大集会が開かれると聞くと、不意に襲いかかってこれを破り、司令官マリウス・アルフィウスを討ち取った。その後はクマエでハンニバルに包囲されたが、出撃して多くの敵を倒し、再び城内に戻った。ハンニバルは包囲を解いた。紀元前214年には前執政官待遇でベネウェントゥム付近に進み、ハンノの軍を破った。奴隷が多数を占める軍で戦い、その勝利を描いた絵をリベルタス神殿に奉納したという。兵の一部が敵前逃亡の罪を犯したときも寛大に接し、忠誠と信頼を得た。

紀元前213年に再び執政官となった。その年の冬、任期が終わって次の年の執政官の命で奴隷軍団から離れた際に、不意打ちに遭って殺された。ハンニバルはグラックスを丁重に葬り、遺灰をローマに届けたという。国家ではなく司令官個人への忠誠で成り立っていた奴隷軍団は、この後に霧散した。

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