HISTORICAL PERSON · 1591年没

グレゴリウス14世 (ローマ教皇)

クレモナ出身のローマ教皇。スペイン寄りの政策をとり、フランス王アンリ4世を破門した。またスペイン人によるフィリピン先住民の奴隷的な処遇を停止するよう命じた。在位1年足らずで胆石により死去した。

生涯
1591年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(ソンマ・ロンバルド)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

グレゴリウス14世は、16世紀末のローマ教皇である。本名はニッコロ・スフォンドラーティといい、1535年2月11日、当時ミラノ公国領であったソンマ・ロンバルドで、ミラノ社会の最上層にあたる家に生まれた。母アンナはヴィスコンティ家の出で、出産で亡くなった。父フランチェスコはミラノの元老院議員であったが、1538年に妻を亡くした後に聖職に入り、1544年に教皇パウルス3世によって枢機卿に叙されている。クレモナ司教に任じられた直後の1550年に世を去った。

ニッコロは若いころから質素な暮らしと厳しい信心で知られた。ペルージャで法学を修め、1555年3月2日にパドヴァ大学で世俗法と教会法の学位を得た。父の後を継いでチヴァーテ修道院の管理者となり、当時の多くの管理者と違って、建物の世話と修道生活の改革に熱心に取り組んだ。1552年6月にはスペイン王フェリペ2世からミラノの元老院議員に任じられ、スペイン政府の勧めで、1560年3月13日にピウス4世のもとでクレモナ司教となった。トリエント公会議には1561年から1563年まで参加し、司教が自分の教区に居住することは神の定めだとする立場をとった。この立場はローマからは好まれなかった。教区に戻ると、縁戚の大司教カルロ・ボッロメーオの監督のもとで公会議の改革を進めた。1583年12月12日、グレゴリウス13世により枢機卿に列せられ、1584年にボッロメーオが没した際は追悼ミサを執り行った。司祭フィリッポ・ネリとは親しい友人で、深く敬愛していた。

1590年9月にウルバヌス7世が没すると、スペイン大使オリバーレスは、フェリペ2世が受け入れられる7人の枢機卿の名簿を示した。2か月の停滞の後、12月5日にスフォンドラーティが教皇に選ばれた。彼は名簿に載っていたが、望んでいたわけではなかった。知らせに訪れたモンタルト枢機卿は、十字架の前でひざまずいて祈る彼を見つけたという。翌日、教皇は枢機卿たちに向かって涙を流し、神があなた方をお赦しになるように、あなた方は何をしたのかと言ったと伝えられる。1591年3月の教書では、教皇選挙や在位の長さ、新枢機卿の任命についての賭けを、破門の罰をもって禁じた。

在位は短かったが、フランスの宗教戦争ではカトリック側を強く支持した。スペイン王とマイエンヌ公に強く勧められ、1591年3月1日にアンリ4世を異端者として破門し、フランスへの侵攻軍を編成して甥のエルコレ・スフォンドラーティを率いさせた。パリのカトリック同盟にも毎月1万5千スクードを送った。スペイン枢機卿団の後押しで選ばれたことから、フランスとスペインの均衡をとる歴代教皇の政策を放棄したと見られた。二度の枢機卿会議で5人を枢機卿とし、その中には国務長官を務めた甥パオロ・エミリオ・スフォンドラーティがいたが、ネリにも枢機卿の座を勧めたところ、自分より値する者は多いと断られた。1591年にはフィリピンで奴隷にされた先住民を解放するよう命じ、従わなければ破門するとした。

この年の大赦の布告文は、日本の長崎のかくれキリシタンが伝えてきた「ドソンのオラショ」の基になった祈りとされる。ドソンはルソンを指し、フィリピンから来た宣教師が布告文をもたらした可能性が高い。大阪府茨木市の千提寺地区では、この教皇のメダイも見つかっている。伝記によれば、教皇は時々笑いが止まらなくなる癖があり、戴冠式でも現れたという。1591年10月16日、70グラムもあった胆石が原因で死去し、インノケンティウス9世が後を継いだ。

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