伝記
ガザーリーは、ペルシアのイスラーム神学者でスーフィー(神秘主義者)である。正しくはアブー・ハーミド・ムハンマド・イブン・ムハンマド・アッ=トゥースィー・アル=ガザーリーといい、ヨーロッパではアルガゼルのラテン名で知られ、長らく哲学者と見なされてきた。「ムハンマド以後に生まれた最大のイスラーム教徒」とまで敬われ、スンナ派が多数派としての地位を固める過程で大きな役割を果たした人物とされる。1058年、ホラーサーン地方のトゥース近郊に生まれた。父は羊毛を売る商人だったと伝えられるが、事実かどうかは疑わしく、母についての記録はない。幼くして父を亡くし、弟アフマドとともに父の友人のスーフィーに養われた。父の遺産のおかげで学業に専念でき、トゥース、ついでジュルジャーンの師のもとで学んだ。
帰郷の途中、盗賊に師の講義を記したノートを奪われ、返してほしいと頼むと、頭領は、ノートがなくなって学問が何も残らないなら、お前はそれを知っているとどうして言えるのか、と言い放った。この言葉に深い衝撃を受けた彼は、トゥースに戻って三年をかけて内容の理解と記憶に努め、スーフィーの修行も始めた。1077年にはニーシャープールに移り、ニザーミーヤ学院で大学者ジュワイニーに師事して、シャーフィイー学派の法学とアシュアリー学派の神学を修めた。ジュワイニーの代講を務めるほどの才を示したが、過度の研究で体を壊したこともあった。1085年に師が没すると、セルジューク朝の宰相ニザームル・ムルクの庇護を受けて宮廷に出仕し、1091年にはバグダードのニザーミーヤ学院の教授に任じられた。三百人の学生を教えるかたわら、哲学やシーア派の思想を研究して批判を書き、1094年に哲学の概説書『哲学者の意図』、翌年にその批判書『哲学者の自己矛盾』を著した。
しかし、神学や哲学では心が満たされず、世俗への執着と来世への思いに引き裂かれた。1095年、講義中に一語も発せなくなり、食べ物も喉を通らなくなった。職も地位も捨てて同年11月に修行者として旅立ち、およそ二年、シリアやパレスチナを巡り、1096年にメッカ巡礼を果たした。ダマスカスではモスクのミナレットに籠もり、エルサレムでは瞑想の合間に『エルサレム書簡』を書いた。1099年に子供たちの求めでトゥースに戻ると、スーフィーの道場を設けて若者と暮らした。
1106年、宰相ファフルル・ムルクの要請でニーシャープールのニザーミーヤ学院の教壇に復帰し、法学書『法源学の精髄』と自伝『誤りから救うもの』を著した。1110年に公職を退いてトゥースに帰り、翌1111年12月18日に没した。彼は権力と結びついたウラマーの堕落を批判し、イスラーム法の遵守とスーフィズムの実践を両立させるよう説いた。哲学への批判は一般の信徒の反感を強め、哲学者の書が焼かれたともいい、のちにイブン・ルシュドはこれを再批判してアリストテレスの思想を擁護した。
スーフィズムに回心する前の彼は、自分がイスラーム教徒なのはたまたまその家に生まれたからにすぎないと考え、疑いの入り込む余地がない「確実な知識」を求めて、すべてを疑うところから出発したという。マグリブの思想家イブン・トゥーマルトが会いに来たという伝承もあるが、史実性は否定されている。トゥース旧市街の城壁付近では、墓と推定される遺構が発掘されている。
同じ年に亡くなった人物
- シルウェステル4世 (対立教皇) (1111年(推定))
- ベルトルト2世 (シュヴァーベン大公) (1111年没)
- ルッジェーロ1世 (プッリャ公) (1111年没)
- ロベール2世 (フランドル伯) (1111年没)
- ボエモン1世 (アンティオキア公) (1111年没)
同じ地域に関係する人物
- アリー・リダー (818年没)
- アーディル・シャー (1749年没)
- チャグリー・ベク (1060年没)
- アッバース・ミールザー (1833年没)
- イスハーク・ブン・ラーフワイヒ (853年没)