伝記
ベルトルト2世は、1050年頃に生まれたケルンテン公ベルトルト1世・フォン・ツェーリンゲンの次男である。父とともに、ハインリヒ4世に対抗するルドルフ・フォン・ラインフェルデンを支持した。1077年、皇帝はツェーリンゲン家とラインフェルデン家から称号と領地を取り上げた。翌1078年に父が死ぬと、ベルトルトはその権利を継いで領地の返還を求め、シュヴァーベン公領への要求も引き継いだ。1079年にはルドルフの娘アグネスと結婚し、両家の関係を婚姻でも結んだ。
1080年以降は、義父ルドルフの息子で、同じくベルトルトという名のラインフェルデン家の人物を支持した。皇帝側が推すシュタウフェン家のフリードリヒ1世とは対立し、バーゼル司教、シュトラスブルク司教とも争った。ただし、1080年代後半にはこの地方に平穏な時期も訪れた。1087年には、バーゼル司教が関係する土地交換で証人を務めている。1090年に義兄のベルトルト・フォン・ラインフェルデンが死去すると、再び緊張が高まった。ツェーリンゲン家のベルトルトは、故人の称号そのものではなく、ブルグントにある領地の相続権を主張し、シュヴァーベン公位の獲得も目指した。
1090年代初めには、ツェーリンゲン家の本拠であるブライスガウに勢力を広げ、シュヴァーベン公の影響から離れた支配を進めた。1092年、ヴェルフ家と教皇側の支持を得て、フリードリヒ1世に対抗するシュヴァーベン公に選ばれた。同じ年には、ケルンテン公ハインリヒ5世に反対する人々から、ケルンテン公とヴェローナ辺境伯にも選ばれた。しかし父と同様、ケルンテンで実際の権力を振るうことはできなかった。1093年、ヴェルフ4世とウルムで二年間の地域和平を誓った。これは当初シュヴァーベンを対象とし、皇帝の支持者を除くものであったが、バイエルンへも広がり、南ドイツの反皇帝勢力を結びつけた。同年にはシュヴァルツヴァルトにザンクト・ペーター修道院を創設した。この修道院は一族の墓所となり、皇帝と対立する改革派の拠点でもあった。
1098年頃、長く争ってきたフリードリヒ1世との間に合意が成立した。フリードリヒがシュヴァーベン公領を保持する一方、ベルトルトはチューリッヒの帝国代官権、または帝国領を得て、公爵の称号も保った。この決着によってハインリヒ4世との関係は改善した。1100年頃からは、一族で初めて「ツェーリンゲン公」を名乗るようになった。その支配の基礎は家領であり、修道院の創設やシュヴァルツヴァルトの開拓によって領地を固めた。フライジングのオットーは、この公爵位を、統治権や領土の裏付けが乏しい名目的な地位と捉えている。部族全体を率いる職や、特定の広い公国を治める職とは異なる爵位であった。
1105年には、父帝ハインリヒ4世に反乱を起こした王子ハインリヒ5世の近しい同盟者となった。限られた家領から始まった支配も、晩年には公爵位にふさわしいまとまりを持つに至った。1111年4月12日に死去し、公位は息子ベルトルト3世が継いだ。ベルトルト3世が1122年に亡くなると、その弟コンラート1世が後継者となった。ベルトルト2世から始まったツェーリンゲン公の称号は、1218年まで一族に受け継がれた。
同じ年に亡くなった人物
- ボエモン1世 (アンティオキア公) (1111年没)
- ガザーリー (1111年没)
- ルッジェーロ1世 (プッリャ公) (1111年没)
- モレームのロベール (1111年没)
- ロベール2世 (フランドル伯) (1111年没)
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