伝記
ロベール2世は、1065年頃、フランドル伯ロベール1世とゲルトルート・フォン・ザクセンの長男として生まれた。父の存命中から統治に関わり、父が聖地巡礼で不在にした1085年から1091年にかけては、摂政として伯領を治めた。1093年に伯位を継ぎ、教皇ウルバヌス2世が1095年に呼びかけた第1回十字軍へ加わった。出発に際しては、妻クレマンス・ド・ブルゴーニュに留守中の統治を任せた。コンスタンティノープルでは皇帝アレクシオス1世に忠誠を誓い、征服した土地を返すと約束した。父が巡礼の際に皇帝に仕えていたこともあり、この誓約を受け入れた。
ニカイア包囲の後、十字軍は二手に分かれた。ロベールはボエモンやノルマンディー公ロベールらと先行し、1097年6月末、クルチ・アルスラーン1世の軍に包囲された。後続のゴドフロワ・ド・ブイヨンやトゥールーズ伯レーモン4世らが到着すると、二つの軍は合流して敵を破った。同年末にはアンティオキアを包囲し、12月にはボエモンと食糧調達に出た際、ダマスカスのドゥカークが送った救援軍を撃退した。町を占領した十字軍は、今度はモースルのケルボガに囲まれた。1098年6月28日、ロベールはヴェルマンドワ伯ユーグとともに先頭の部隊を率いて出撃し、包囲軍を破った。アンティオキアの領有をめぐっては、レーモンではなくボエモンの要求を支持した。
マアッラト・アン=ヌウマーンの包囲にも参加したが、レーモンから示された6000枚の貨幣による誘いには応じなかった。1099年2月までゴドフロワとアンティオキアにとどまり、アルカ包囲中にレーモンらと再び合流した。6月には先陣としてラムラに進み、タンクレードとサマリアに赴いて攻城兵器用の木材を集めた。7月15日にエルサレムが陥落すると、統治者としてゴドフロワを推した。続くアスカロンの戦いでも中央の部隊を率いて勝利に加わったが、同地の領有をめぐる内紛ではゴドフロワを支持できず、町は確保されなかった。8月末に帰国の途に就き、途中で制圧したラタキアを約束どおりビザンツ帝国へ返した。皇帝から仕官を勧められたものの断り、聖ゲオルギオスの腕とされる聖遺物を持ち帰ってアンチン大修道院に納めた。
帰国後にはブルージュ付近に聖アンドレ修道院を建てた。遠征中に神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世がフランドルへ勢力を伸ばそうとしていたため、皇帝に反抗するカンブレーの都市共同体を支援し、いくつもの城を攻略した。1102年に皇帝と講和し、1103年にはイングランド王ヘンリー1世と同盟した。フランドルから1000騎を提供する代わりに、王が年ごとの支払いを行う取り決めであった。1105年、ハインリヒ5世が先の講和を破って攻めてくると、ロベールはドゥエー郊外で進撃を止めた。新たな講和では、ドゥエーとカンブレーに対する自分の権利を認めさせた。
やがてヘンリー1世が支払いを拒むと同盟は崩れ、ロベールは上級君主のフランス王ルイ6世と結んでノルマンディーを攻撃した。王に反乱する諸侯との戦いは続き、ブロワ伯ティボー4世が反乱側を率いた。ロベールは鎮圧のためモー地方へ進んだが、1111年10月5日、戦闘中に落馬して踏みつけられ、命を落とした。三人の子のうち成人した長男が、ボードゥアン7世としてフランドル伯を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ベルトルト2世 (シュヴァーベン大公) (1111年没)
- ボエモン1世 (アンティオキア公) (1111年没)
- ルッジェーロ1世 (プッリャ公) (1111年没)
- モレームのロベール (1111年没)
- シルウェステル4世 (対立教皇) (1111年(推定))
同じ地域に関係する人物
- シモン・アルノー・ド・ポンポンヌ (1699年没)
- ギュスタヴ・ガリグー (1963年没)
- マリー・ド・フランス (1145-1198) (1198年没)
- フランソワ・ド・バッソンピエール (1646年没)
- ジャン=フランソワ・ミレー (1875年没)