伝記
扶蘇は、秦の始皇帝の長男である。姓は嬴で、生年は不明、紀元前210年に没した。始皇帝には二十数人の男子がいたが、扶蘇はその長子でありながら太子には立てられていなかった。仁愛ある人柄と聡明さで知られ、たびたび父を諫めたという。母については、楚の王族である昌平君らが秦王九年(紀元前238年)に秦の中心にいたことから、楚の出身だったのではないかとする研究者の推測がある。
始皇35年(紀元前212年)、不老の薬を探させていた方士の盧生が、韓の客である侯生とともに始皇帝を非難して逃亡した。激怒した始皇帝は学者や方士を取り調べ、禁令を犯した460人余りを咸陽で生き埋めにした。いわゆる坑儒である。扶蘇は、天下が初めて平定されて遠方の民がまだ安息を得ていないこと、学者たちは孔子の教えに従っていることを述べ、刑罰を厳しくすれば民が不安を感じると恐れて諫めた。何度も諫めたため始皇帝は怒り、扶蘇を上郡にいる蒙恬の監督役として北の地へ送った。蒙恬は数十万の軍を率いて辺境を守っていた。
始皇37年(紀元前210年)10月、始皇帝は5回目の巡幸に出た。末子の胡亥、左丞相の李斯、中車府令の趙高が同行した。巡幸中の平原津のあたりで始皇帝は発病し、病は重くなった。そこで、扶蘇に宛てて、喪を咸陽で迎えて葬儀を行うよう命じる、皇帝の印を捺した文書を作った。この文書は封印されたまま趙高の手元にとどめられ、使者には渡されなかった。研究者の鶴間和幸は、この文書は長子の扶蘇を後継者と認める内容で、本来なら立太子の文書となるはずだったとみている。
同年7月、始皇帝は沙丘の平台宮で崩御した。李斯は変事を恐れて死を伏せ、事情を知るのは李斯、胡亥、趙高と宦者5、6人だけだった。趙高は胡亥をそそのかし、詔を偽って扶蘇を廃し胡亥を太子に立てる謀略に同意させた。さらに趙高は、扶蘇が即位すれば親しい蒙恬が丞相となって李斯の立場も危うくなると李斯に吹き込み、李斯も加担した。三人は扶蘇宛ての文書を破り捨てて詔を偽造し、胡亥の食客を使者として上郡へ送った。偽の文書は、扶蘇が何年も辺境にいながら功がなく、しばしば上書して始皇帝を誹謗し、太子になれないと日夜怨んでいるのは不孝だとして剣を賜って自決を命じ、蒙恬にも死を命じるものだった。
扶蘇は文書を読んで泣き、奥の部屋に入って自殺しようとした。蒙恬は、天下の重任を託されているのに一度の使者で自決を命じるのは偽りではないかと疑い、再び詔を請うてから死んでも遅くないと制止した。しかし使者が何度も促すと、仁愛に厚い扶蘇は「父が子に死を賜るのに、どうして再び詔を請えようか」と言って自決した。蒙恬は従わず、陽周に囚われたのち、同年内に自決を命じられて死んだ。胡亥は咸陽に戻って始皇帝の死を発表し、二世皇帝に即位した。二世元年(紀元前209年)7月、陳勝は呉広と反乱を計画した際、人々に慕われた扶蘇の名を利用しようとし、自らを扶蘇だと称して挙兵した。扶蘇の悲劇的な最期には後世の歴史家も同情を寄せたとされる。漢の武帝の太子であった劉据が紀元前91年に挙兵した際にも、師が扶蘇の例を思い起こさせたことが一因だったという。また、秦の最後の君主子嬰を扶蘇の子とする説が小説などにあるが、『史記』などの史書に裏付けはなく、始皇帝の弟の子とする説もある。扶蘇は中国の道教寺院などで、蒙恬と対になって門神として祀られることもある。
同じ年に亡くなった人物
- ティベリウス・センプロニウス・ロングス (紀元前210年没)
- クレオメネス3世 (紀元前210年代没)
- 始皇帝 (紀元前210年没)
- アルサケス1世 (紀元前210年代没)
- ティリダテス1世 (紀元前210年代没)
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