伝記
ティリダテス1世は、アルサケス朝パルティア王国の初代王アルサケス1世の弟とされる人物である。在位は紀元前248年ごろから紀元前211年ごろ、あるいは紀元前217年までともいわれる。名はラテン語形で、アルメニア語のテルダテを経て古代ペルシア語の「ティルによって与えられた」を意味する語に由来するとされ、ギリシア語ではテルダテス、テリダテスなどとも記録された。
その生涯の伝えは一つではない。アリアノスの『パルティカ』によれば、アルサケスとティリダテスは兄弟で、フリアパキオスの子アルサケスの子孫であり、二人は五人の仲間とともにパルティアの太守ペレクレスを殺害した。理由は、太守が一人に加えた侮辱への復讐だったという。その後マケドニア人を追い出して独自の政権を樹立し、パルティアはローマ人にとっても手ごわい強国となり、時にローマ人を破ったとされる。シンケロスの要約では、兄弟はペルシア王アルタクセルクセスの子孫で、バクトリアの太守アガトクレスに対して反乱を起こした。アガトクレスはティリダテスに恋をして若者をさらおうとし、アルサケスに殺された。アルサケスはペルシア人の王となったが二年後に殺され、ティリダテスが跡を継いで37年間統治したと伝わる。
別の伝えでは、セレウコス2世が小アジアでガリア人に敗れたという噂を聞いたアルサケスとティリダテスの兄弟が、盗賊の手勢を率いてセレウコス朝のパルティア州に侵入し、総督アンドラゴラスを殺害した。兄はアスタウエネのアサアクで王冠を授けられ、王国を建てた。紀元前248年ごろにアルサケスから王位を継いだティリダテスは、ほどなくカスピ海南岸のヒュルカニアを征服した。紀元前234年にバクトリアのディオドトス1世が没すると、その脅威から解放されて、後継のディオドトス2世と講和し、いっそう強力な軍を持つようになった。
紀元前228年ごろ、セレウコス2世がバビロンに軍を集めて東進を始めると、ティリダテスは退却し、最終的にカスピ海近くのステップに住むアパシアカエ、すなわち水サカ族に庇護を求めた。しかし紀元前227年ごろ、セレウコス朝内で内紛が起きたため、セレウコス2世は東進をやめてシリアに退き、パルティア人は勝利を宣言することができた。ティリダテスは地位を固めるために軍を増強し、砦を建て、既存の都市を補強した。また、アパオルテノン山の極めて堅固な場所に新都市ダラを建設し、おそらくパルティアの首都とした。37年間統治した後、紀元前211年に没し、息子のアルタバノス、あるいは甥のアルサケス2世が王位を継いだとされる。
一方で、その存在や即位を疑う歴史家は多い。アリアノスの記述は事実に基づいていないようで、貨幣や碑文にも裏づけがなく、近代の研究者はアルサケスが紀元前211年までパルティアを治め続けたと考えている。それでも、ニサ出土の文書や陶片から、初期のアルサケス朝の王とプリアパティオスの関係が示され、その間をつなぐ兄弟として、ティリダテスと思われる人物が想定されている。ティリダテスこそが真の建国者で、ヒュルカニアを征服し、バクトリア王との同盟でセレウコス朝軍を破って大王を称したとする見方もある。アリアノスによれば、ティリダテスは紀元前238年ごろセレウコス2世に敗れて追われたが、セレウコスの弟アンティオコス・ヒエラクスの反乱で王が西へ戻ると帰還して勝利し、兄の名アルサケスを自らの名とした。後の王たちもこれにならったという。なお、ネムルト山の碑文には、同じ王家の他の人々と違ってその名は見えない。
同じ年に亡くなった人物
- 扶蘇 (紀元前210年没)
- クレオメネス3世 (紀元前210年代没)
- リュクルゴス (スパルタ王) (紀元前210年没)
- アルサケス1世 (紀元前210年代没)
- グナエウス・フルウィウス・ケントゥマルス・マクシムス (紀元前210年没)
同じ地域に関係する人物
- パコルス2世 (105年没)
- アブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィー (2006年没)
- アルテミタのアポロドロス (紀元前86)
- スレナス (紀元前52年没)
- アルサケス2世 (紀元前191年没)