HISTORICAL PERSON · 615年没

ボニファティウス4世 (ローマ教皇)

第67代ローマ教皇として608年から615年まで在位し、615年5月に死去した。

生涯
615年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(Marsica)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ボニファティウス4世は、550年頃に生まれたベネディクト会の修道士で、608年から615年に没するまでローマ司教、すなわち教皇の座にあった人物である。現在のアブルッツォ地方にあたるマルシカ地方の出身で、父は医師のヨハンネスといい、教皇の事績を記した『教皇の書』によれば、家系はマルシ人の出であるとされる。先代の教皇の時代には、ローマ教会の助祭であり、聖ペトロの教会領の管理者を務めていた。

彼は先代の教皇ボニファティウス3世の後継として選ばれたが、コンスタンティノープルの皇帝の承認を待つために、9か月を超える空位が続いた。叙階の日付は、研究者によって異なる説が示されており、教皇庁は在位の公式な開始日を別に定めている。彼は師にならってラテラノ宮殿を修道院に改め、修道士たちを身近に置いた。『教皇の書』は、その在位が飢饉、疫病、洪水に見舞われたと記すが、それ以外の情報は乏しく断片的である。

最もよく知られた事績は、ローマのパンテオンの教会化である。彼は東ローマ皇帝フォカスの許可を得て、アグリッパが建てた異教の神殿を、聖母マリアと殉教者たちに捧げる教会として聖別した。名は「殉教者の聖マリア」といい、ローマで異教の神殿がキリスト教の礼拝の場に改められた最初の例とされる。その際、28台の荷車分の聖なる遺骨が地下墓所から運ばれ、主祭壇の下の斑岩の盤に納められたと伝えられる。聖別は聖霊降臨の次の日曜日に行われた。これと時を合わせて、異教のレムリア祭が万聖節に置き換えられたともいう。万聖節は、のちの835年に教皇グレゴリウス4世が別の日に移した。その見返りとして、ローマの広場にはフォカスを称える金色の像を戴く円柱が建てられた。歴史家グレゴロヴィウスは、これを古い伝統の精神でローマが築いた最後の記念碑であり、ビザンツへの服従の象徴だと評している。

イングランドの教会にも心を配った。610年にはロンドン初代司教メリトゥスがローマを訪れ、新しく設けられた教会の課題を教皇に相談した。彼は当時開かれていた修道生活に関する会議に出席し、帰国の際には会議の決定と、カンタベリー大司教ラウレンティウスや、ケント王、そして全てのアングロ・サクソン人にあてた教皇の書簡を持ち帰ったとされる。ただし現存する決定文は偽作とされ、王あての書簡の真偽は研究者の間で意見が分かれている。また、アイルランド出身の宣教師コルンバヌスが、ランゴバルド王アギルルフに促され、教皇に書簡を送った。第五回公会議を認めたことで異端の疑いがあると述べ、公会議の開催を促す内容だったが、返答の記録は残っていない。

晩年、教皇は自らの住まいを修道院に改め、そこに退いて615年に没した。遺体は古い聖ペトロ大聖堂の柱廊に葬られ、のちに三度移されて、現在は大聖堂の左の翼廊に眠る。後任の教皇は、その方針を改めたとされる。彼はカトリック教会で聖人として敬われ、のちの教皇ボニファティウス8世は彼を聖人とし、その名にちなんで自らの名を選んだという。命日は全教会の祝日とされ、出身地に近いルーコ・デイ・マルシでは、守護聖人として8月の週末に祭りが営まれる。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物