伝記
アエミリア・テルティアは、大スキピオ(スキピオ・アフリカヌス)の妻となった古代ローマの貴族女性である。単にアエミリアとも呼ばれ、生年は伝わらないが、前163年または前162年に没したとされる。ローマの古い貴族の家柄であるアエミリウス氏の出で、前219年と前216年に執政官を務めたルキウス・アエミリウス・パウルスの娘にあたる。父は前216年のカンナエの戦いで戦死した。彼女はそのころ、当時はまだ単にプブリウス・コルネリウス・スキピオと呼ばれていた人物と結婚したとされる。結婚の時期については、前213年から前210年のあいだ、あるいは前206年ごろとする見方もあり、はっきりしない。
兄弟に、のちにマケドニア征服で名を上げたルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクスと、マルクス・リウィウス・アエミリアヌスがいたことが知られている。夫とのあいだには二男二女が生まれた。長男プブリウスは前180年に鳥占官となり、次男ルキウスは前174年に法務官を務めた。娘はどちらもコルネリアと呼ばれ、姉はスキピオ・ナシカ・コルクルムに嫁ぎ、妹は前177年の執政官ティベリウス・センプロニウス・グラックスに嫁いだ。この妹コルネリアが、のちのグラックス兄弟の母として名高い人物である。結婚生活は子に恵まれ、幸福だったとリウィウスやポリュビオスらが伝えるという。
彼女は温和な性格で、夫への忠誠心が強かったとされる。夫は軍事方針をめぐって元老院議員の一部を怒らせ、ギリシア風の習慣を取り入れたことで保守派の反感も買っていた。ポリュビオスは、兄パウルス・マケドニクスの家にしばらく身を寄せていたため、彼女の様子を直接知る立場にあった。ポリュビオスは、夫の全盛期の幸運にあずかった彼女が、女性の参加する祭儀に出かける際の豪勢さを記している。大勢の従者、金銀で飾った馬車、高価な祭具などである。こうした華やかな振る舞いは、ユノ女神や大母神の祭祀をはじめとする公的な宗教儀礼での女性たちの地位争いを映すものであり、有力な縁組や集まりを通じて一族を政治的に宣伝する意味もあった。芸術品を買い集めることを好んだという伝えもある。既婚の貴族女性としては異例の自由と富を享受し、寛大な夫のおかげだったとされ、後の世代の若い女性たちの手本にもなったという。
夫が奴隷の少女と関係を持ったとき、彼女はその噂が広まらないよう取り計らい、夫の名誉を守ったとされる。ウァレリウス・マクシムスやプルタルコスは、これを夫にとって名誉なことと見なした。少女は夫の死後に解放され、彼女の解放奴隷の一人と結婚した。
スキピオは前183年、リテルヌムの別荘に引きこもったのち、長引く病で世を去った。遺言により、彼女は従来どおりの暮らしを続けられるよう手当てされ、用益権つきの持参金として30万デナリウス相当を与えられたという。娘たちにはそれぞれ金50タレントを約束していたとも伝わる。彼女は夫の葬儀用の面をカピトリウムの丘のユピテル神殿に納める手配もした。彼女は夫と二人の息子に先立たれたが、娘たちは母より長く生きた。ウォコニウス法のため、女性が多くの財産を相続したり、女性に財産を遺したりすることには制約があったとされる。葬儀はおそらく、長男プブリウスの養子で彼女の主な相続人であるスキピオ・アエミリアヌスが営んだ。彼女が用いた貴重な祭具の多くはコルネリウス家に受け継がれ、一族の女性たちを飾り、彼女を偲ぶよすがとなったという。
同じ年に亡くなった人物
- ハロンノフリス (紀元前200)
- クィントゥス・ムキウス・スカエウォラ (紀元前174年の執政官) (紀元前 200年(推定))
- タルススのゼノン (紀元前200)
- ラオディケ4世 (紀元前 200年(推定))
- Artapanus of Alexandria (紀元前200)
同じ地域に関係する人物
- Titus Flavius Sabinus (83年没)
- アレクサンデル2世 (ローマ教皇) (1073年没)
- トゥリオ・ピネリ (2009年没)
- アニケトゥス (ローマ教皇) (167年没)
- ヨハネス15世 (ローマ教皇) (996年没)