伝記
ルッジェーロ2世は、オートヴィル朝の初代シチリア王である。1095年12月22日、南イタリアのカラブリア地方にあるミレートで、シチリア伯ルッジェーロ1世の末子として生まれた。父が1101年に没すると兄シモーネが幼くして伯位を継ぎ、母アデライデ・デル・ヴァストが摂政を務めた。シモーネが1105年に12歳で亡くなると、9歳の弟が伯位を継承し、母は引き続き摂政としてこれを支えた。母の補佐役には、パレルモのギリシア系の首長クリストドゥロスらがいたという。
当時の南イタリアは、ノルマン人の冒険者たちが11世紀以来ビザンツ帝国やランゴバルド系の勢力の争いに関わりながら、しだいに支配者となっていった土地であった。ルッジェーロは1109年にビザンツ皇帝アレクシオス1世からプロトノビリッシモスの称号を贈られ、1110年の夏にはエルサレムへ向かう途中のノルウェー王シグルズ1世の訪問も受けている。1112年、16歳で親政を始めた。1117年、母がエルサレム王ボードゥアン1世との結婚を無効とされて帰国し、ルッジェーロはこれを屈辱と感じたらしく、のちに十字軍への参加を渋った理由を説明するものかもしれないとされる。同じ年、カスティーリャ王アルフォンソ6世の娘エルビラと結婚した。
1127年、一族のプーリア公グリエルモ2世が跡継ぎのないまま没すると、ルッジェーロは半島にあるオートヴィル家の全領地とカプア侯領の宗主権を主張した。シチリアとプーリアの合体には教皇ホノリウス2世や公国の臣民が抵抗し、教皇はカプアで彼に対する十字軍を説いたが、この連合は失敗した。1128年8月、ホノリウスはベネヴェントで彼にプーリア公位を授けた。1130年に教皇位をめぐって二人が並び立つと、彼は対立教皇アナクレトゥス2世を支持し、その見返りとして9月27日にシチリア王位を認める勅書を得て、同年のクリスマスにパレルモで戴冠した。
ところが、インノケンティウス2世を支持する神聖ローマ皇帝ロタール3世がイングランドやフランスなどの支持を取り付けて侵攻し、以後10年ほどの戦いとなった。1137年までは形勢が悪く、プーリアなど各地を失ったが、ロタールが帝国に戻ると巻き返し、1139年までに大部分を奪還した。アナクレトゥス2世の死後にインノケンティウス2世と和解し、1144年にシチリア王位を認められた。
彼の王国は、イタリア人、ギリシア人、アラブ人、ノルマン人、ユダヤ人などが民族的・宗教的な寛容のもとで共存する多民族国家で、地中海に覇を唱えるヨーロッパの強国の一つとなった。ルッジェーロ自身も東方の文化を積極的に取り入れ、学者アル・イドリーシーに世界地図タブラ・ロジェリアナを作らせた。アル・イドリーシーは晩年のルッジェーロのもとで解説書「ルッジェーロの書」を著したが、アラビア語だったため、主にイスラム圏で広まった。1148年にはアフリカ王ともなった。1147年の第2回十字軍の際にはギリシアへの進出を狙ったが果たせなかった。
1154年2月26日に没し、王位は息子のグリエルモ1世が継いだ。最晩年の1151年に3度目の結婚をしたベアトリーチェとの間に生まれた娘コスタンツァは、のちに神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世と結婚した。その生涯は、カロル・シマノフスキのオペラ「ロジェ王」の題材にもなっている。
同じ年に亡くなった人物
- イジャスラフ2世 (1154年没)
- コンシュのギョーム (1154年)
- オータンのホノリウス (1154年)
- ヴャチェスラフ1世 (1154年没)
- ギルベルト・デ・ラ・ポリー (1154年没)
同じ地域に関係する人物
- エルビラ・デ・カスティーリャ (シチリア王妃) (1135年没)
- アルフォンス2世 (プロヴァンス伯) (1209年没)
- ニコラエ・バルチェスク (1852年没)
- ジュゼッペ・インパスタート (1978年没)
- アレッサンドロ・スカルラッティ (1725年没)