伝記
アルフォンソ7世は、1105年3月1日に生まれ、のちにカスティーリャ=レオンの王となった人物である。母は女王ウラカ、父はガリシア伯ライムンドで、父方の叔父にのちの教皇カリストゥス2世がいる。1107年、2歳で父を失い、1109年には母方の祖父アルフォンソ6世も死んだ。遺言により母が女王となり、同じ遺言に従ってアラゴン王アルフォンソ1世と再婚した。この結婚は多くのカスティーリャ貴族の反感を招き、ガリシアの貴族は、司教ディエゴ・ヘルミレスと守り役のペドロ・フロイラスに率いられて、1111年9月に7歳のアルフォンソをガリシア王として戴冠させた。各派の思惑が絡んだ内戦となり、同じ年にアラゴン王が反対派を破った。アラゴン王は混乱のなかでカスティーリャを見限り、1114年にウラカと離婚してアラゴンへ戻った。
1126年に母が死ぬと、アルフォンソ7世はカスティーリャ=レオン王として即位したが、混乱を収めるのに多くの労力を費やした。1128年には、母方の従弟アフォンソ・エンリケスをポルトガル王アフォンソ1世として承認した(正式の承認は1143年)。同じ1128年、バルセロナ伯ラモン・バランゲー3世の娘ベレンゲラと結婚し、7人の子が生まれた。東部に攻め入った継父アルフォンソ1世のアラゴン軍は、1131年までに押し戻した。貴族の反乱は1130年に始まったが、1134年に鎮圧して国内を平定した。1134年にアルフォンソ1世が死ぬと、アラゴンへ逆に介入してラ・リオハ、ナヘラ、サラゴサを占領し、ラミロ2世と貴族たちを従えた。1135年にはナバラ王ガルシア6世も臣従させた。同じ1135年の5月26日、ヒスパニア皇帝を名乗ってレオン大聖堂で戴冠し、義兄のバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世らの臣従を受けた。
アルフォンソ7世はレコンキスタにも乗り出した。1133年にサラゴサ王国の協力を得て、南下してヘレス・デ・ラ・フロンテーラを略奪した。田畑を荒らして城を落とし、家畜や穀物を奪い、モスクに火を放つ行軍だったとされる。1138年にも同様に南下した。どちらの遠征も都市の征服にはつながらなかったが、1139年からタホ川流域を目標に定め、オレハを落とした。1143年にはモーラとコリアも落とし、領土を広げた。1147年にムラービト朝が滅んでムワッヒド朝が台頭すると、同年にバレンシア王兼ムルシア王のローボ王と同盟し、ジェノヴァ、ピサ、バルセロナの船団の協力で港町アルメリアを征服して、治世は頂点に達した。1151年にはラモン・バランゲー4世と主従関係を結び、未征服のバレンシアとムルシアを封土として与えると約束した。
1151年からムワッヒド朝がスペイン南部を征服し、1157年にアルメリアに迫った。アルフォンソ7世は救援に向かったが果たせず、帰る途中の1157年8月21日、52歳で没した。ウベダとバエサもムワッヒド朝に奪われた。領土は分割され、長男サンチョ3世がカスティーリャを、次男フェルナンド2世がレオンとガリシアを継いだ。翌1158年にサンチョ3世が急死し、孫のアルフォンソ8世が幼くして即位して、カスティーリャは内紛で弱まった。
同じ年に亡くなった人物
- コンラート1世 (マイセン辺境伯) (1157年没)
- ユーリー・ドルゴルーキー (1157年没)
- クヌーズ5世 (デンマーク王) (1157年没)
- ラミロ2世 (アラゴン王) (1157年没)
- ディルク6世 (ホラント伯) (1157年没)
同じ地域に関係する人物
- フェルナンド4世 (カスティーリャ王) (1312年没)
- マノレテ (1947年没)
- 十字架のヨハネ (1591年没)