伝記
十字架のヨハネは、16世紀スペインのカトリック司祭であり、神秘思想家である。アビラのテレサとともにカルメル会の改革に取り組み、『暗夜』などキリスト教神秘主義の優れた著作を残した。カトリック教会と聖公会で聖人とされ、教会博士の一人でもある。記念日は12月14日である。
1542年、スペインのフォンティベーロスに生まれた。本名はフアン・デ・イエペスという。父ゴンサーロは裕福な織物商の息子であったが、貧しい機織りの娘カタリーナ・アルバレスと結婚したため、一族から勘当された。夫婦は貧しいながらも三人の息子ルイス、フランシスコ、ヨハネをもうけた。父は慣れない貧しい暮らしのなかで病を得て亡くなった。その時期はヨハネの生後まもなくとも、1545年でヨハネが7歳ごろともいわれる。その後、兄ルイスも栄養不良で病死したとされる。母は末の子の健康を案じて、9歳のころ、メディナ・デル・カンポの孤児院に預けたといわれる。一方で、母が二人の子とともにアレバロ、続いてメディナ・デル・カンポに移り、そこで織り手の職を得たとも伝えられる。
ヨハネはその孤児院(貧しい子ら約160人の学校だったともいう)で、教理を中心とする基礎教育を受け、大工などの職業教育も受けたが、身につけるには至らなかったという。孤児院を維持するための物乞いのような仕事もしなければならなかった。17歳で病院の看護の仕事を得たが、街角で病院のための献金を集める役も負わされた。やがてイエズス会の学校で学ぶ機会が開け、1559年から1563年まで人文学を学んだ。安定した病院付きの司祭になる道を勧められたが、カルメル会の修道院を選び、1563年に入会して聖マチアスのヨハネと名乗った。1564年に修道誓願を立て、サラマンカで神学と哲学を学んだ。1567年に司祭に叙階された。
同じ年、25歳のヨハネはアビラのテレサと出会った。女子カルメル会の改革に成功していたテレサは、ヨハネの徳を認め、男子カルメル会の改革の同志となるよう呼びかけた。上長の許しを得て、聖マチアスのヨハネは十字架のヨハネと名を改め、ドゥルエロに新しい修道院を作った。これが跣足カルメル会の発祥の地となった。ヨハネは意欲的に修道会の霊的刷新に乗り出したが、その行動は周囲の修道士たちに危険視され、理解されなかった。ピアチェンツァの修道会総会では厳しく弾劾され、1577年には同じ修道会士たちによってトレドの修道院に幽閉された。九か月におよぶ暗い小部屋での生活のなかで霊的なひらめきを受け、その経験をもとに『暗夜』を著したとされる。1578年8月16日に脱出し、1581年に教皇グレゴリウス13世の許可を得て、ようやく改革カルメル会が認められた。しかし1591年のマドリードの会議でまたも批判され、ペニュエラへの隠棲を余儀なくされた。まもなく病でウベダの修道院に送られ、1591年12月14日、49歳で世を去った。
著作の初の出版は死後約30年の1618年であった。1675年に列福され、1726年に列聖された。二十世紀のエーディト・シュタインは晩年ヨハネの研究に没頭したが、完成を見ずに強制収容所で殺害され、サルバドール・ダリは、ヨハネの手によるとされる十字架の図に着想を得て絵を描いた。
同じ年に亡くなった人物
- インノケンティウス9世 (ローマ教皇) (1591年没)
- ベルナルディーノ・カンピ (1591年没)
- アンナ・フォン・ヘッセン (1591年没)
- ヴィンチェンツォ・カンピ (1591年)
- ウグリチのドミトリー (1591年没)
同じ地域に関係する人物
- フェルナンド4世 (カスティーリャ王) (1312年没)
- アルフォンソ7世 (カスティーリャ王) (1157年没)
- マノレテ (1947年没)