伝記
コンスタンス・ド・カスティーユは、フランス王ルイ7世の2番目の王妃である。スペイン名はコンスタンサ・デ・カスティーリャという。1136年ごろの生まれとされ、1138年や1141年とする説もある。父はカスティーリャ・レオン王アルフォンソ7世、母はバルセロナ伯ラモン・バランゲー3世の娘ベレンゲラ・デ・バルセロナで、4人の子の2番目、長女にあたる。弟2人はのちに国王となり、妹のサンチャはナバーラ王妃になった。
ルイ7世は、最初の妻アリエノール・ダキテーヌと、1152年に離婚していた。アリエノールとのあいだに男子が生まれなかったため、王は跡継ぎとなる息子を産める新しい妃を探し、カスティーリャ・レオンと同盟を結んだ。こうして、アルフォンソ7世の最初の嫡出の娘であるコンスタンスが嫁ぐことになった。1154年、コンスタンスはオルレアンの大聖堂でルイ7世と結婚し、その年のうちに王妃として聖別された。18歳ほどで、好ましい容貌と広い教養、堅い信仰をそなえていたという。アリエノールとの離婚の公式な理由は血縁が近すぎることだったが、コンスタンスは王にとって、アリエノールよりもさらに近い親戚だった。
夫妻には2人の娘が生まれた。長女マルグリットは1158年に生まれ、1172年にイングランド王ヘンリー2世の息子の若ヘンリー王と結婚し、のちにハンガリー王ベーラ3世と再婚し、1197年に亡くなった。次女アデルは、アデライード、アリスとも呼ばれ、1160年に生まれた。のちにイングランド王リチャード1世と婚約したが結婚に至らず、1195年にポンチュー伯ギヨーム4世と結婚し、持参金としてウーとアルクの伯領を夫にもたらした。
コンスタンスは、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼から戻ったのち、1160年10月、パリで次女アデルを産んだときに亡くなった。没した日は4日とも6日ともいわれる。遺骸はサン=ドニに葬られた。男子が生まれなかったことから、王は5週間ほどのち、3人目の王妃アデル・ド・シャンパーニュと結婚し、ここに待ち望んだ嗣子フィリップが生まれた。
同じ年に亡くなった人物
- 源義朝 (1160年没)
- テオドール・プロドロモス (1160年没)
- エリク9世 (スウェーデン王) (1160年没)
- ヘルマン3世 (1160年没)
- ファーイズ (1160年)
同じ地域に関係する人物
- ピエール・ピュイゾー (1928年没)
- アンリ・ワロン (1962年没)
- シャルル=アントワーヌ・コワペル (1752年没)
- マルセリーヌ・ロリダン=イヴェンス (2018年没)
- シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール (1838年没)