伝記
アッタロス1世は、紀元前269年に生まれ、紀元前197年に没したペルガモンの支配者である。紀元前241年から紀元前197年まで在位し、救済王(ソテル)と称した。アッタロス朝の第2代にあたり、王の称号を名乗った最初の人物とされる。父は同名のアッタロス、母はアンティオキスで、母はセレウコス朝の王家と縁続きだったらしい。父は王朝の創始者ピレタイロスの甥にあたる家柄の出で、戦車競技の名手としてオリンピアで勝利し、ペルガモンに記念碑を建てられた。若いころのことはほとんど分かっていない。父が早くに亡くなったため、アッタロスは当時の支配者エウメネス1世の養子となり、紀元前241年にエウメネスが没すると、その跡を継いだ。
治世の初めの出来事として伝わるのは、ガラティア人との戦いである。ガラティア人はトラキアから移住したケルト系の集団で、小アジアの各地で略奪を働き、貢納を取り立てていた。エウメネス1世はおそらく貢納を支払っていたが、アッタロスはこれを拒んだ最初の支配者とされる。怒ったガラティア人が紀元前238年から紀元前235年ごろにペルガモンへ攻め寄せると、アッタロスはカイコス川の水源近くでこれを迎え撃ち、決定的な勝利を収めた。2世紀の著述家パウサニアスは、これを彼の最大の功績と記している。この勝利を機に、アッタロスはセレウコス1世の子アンティオコス1世にならって「ソテル」の名を取り、自らを王(バシレウス)と宣言した。養父もすでに王のように振る舞っていたため実権が増えたわけではないが、セレウコス朝の王を上位の宗主とする関係は形のうえで断たれた。ギリシア人を異民族から守る勝者として自らを示し、勝利を記念する彫刻や美術品を数多く作らせた。「瀕死のガリア人」像は、この勝利を祝う記念碑であり、ローマ時代の大理石の模刻が残る。王家の貨幣にはこれまでどおり王朝の創始者ピレタイロスの中年の肖像が刻まれたが、紀元前230年代ごろ、その頭には無地の帯に代えて月桂冠を絡めた王冠が表された。勝利の象徴であり、ガラティア人に勝ったことを祝ったものかもしれない。
東では隣国セレウコス朝としばしば争い、成功も挫折も味わった。紀元前226年までにアンティオコス・ヒエラクスを三度破って小アジアのほぼ全域を手にし、この頃から王国を救ったと自負してソテルを称したとされる。ただし、征服した地域は紀元前222年までにほとんどセレウコス朝に奪い返された。
西ではマケドニア王ピリッポス5世と領土をめぐって対立し、アイトリア人を援助するとともにローマと同盟を結んで、マケドニアの背後を脅かした。ハンニバル率いるカルタゴをマケドニアが助けたことで第一次マケドニア戦争が始まると、同盟を理由に参戦した。エーゲ海で数多くの海上作戦を行い、第一次戦争ではアイギナ島を、第二次戦争ではアンドロス島を手に入れ、二度までピリッポスに捕らえられそうになりながら逃れた。ただしペルガモンの働きは大きなものではなかった。
アッタロスは、小アジアのギリシア人都市の自由を守る者を自任し、ペルガモンや味方にしたい都市の美術や記念建造物に資金を出した。文学、哲学、芸術を奨励し、これがのちのペルガモン文化の礎になったとされる。紀元前197年、第二次マケドニア戦争が終わる少し前に72歳で没した。その数か月前、ボイオティアの戦争会議で演説中に、脳卒中とみられる発作で倒れていた。妻アポッロニスとともに四人の息子を立派に育てたことで称えられ、王位は子のエウメネス2世が継いだ。
同じ年に亡くなった人物
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