伝記
ジェームズ・コノリーは、1868年6月5日にスコットランドのエディンバラで生まれた、アイルランドの独立運動指導者である。1916年のイースター蜂起の中心人物の一人であった。エディンバラのカウゲートと呼ばれる地区で、ともにアルスター出身のアイルランド移民であった両親、ジョンとメアリー・コノリーの間に、三男として生まれた。両親は1850年代にモナハン県などからエディンバラに移住した。父は肥料荷馬車屋で働く労働者で、母は使用人として働き、慢性気管支炎に苦しんで若くして世を去った。当時はアイルランド人に対する反感が強く、アイルランド人は「リトルアイルランド」と呼ばれるスラムに、やむを得ず居住していた。生涯スコットランドなまりで話したという。
二人の兄とともにセントパトリック・スクールに通ったが、10歳で中退し、新聞社に職を得た。年齢と名前を偽って14歳ごろに陸軍に入隊したとされ、そこで初めてアイルランドの土を踏み、イギリス統治下の過酷な現実を理解したという。軍歴の記録がなく、推測の域を出ないが、1889年2月に軍を去ってスコットランドに戻ったという。ダブリンで知り合ったリリー・レイノルズが、1890年の新年にスコットランドへ追って来て、特別の許可を得て、カトリックの教会で結婚した。二人の子は独立後のシャナズ・エアランで議員を務めたとされる。
1890年にスコットランド社会主義連盟に加入し、1893年に兄ジョンのあとを継いで書記になった。この連盟では、12歳年長のジョン・レスリーに強く影響され、アイルランドに別個の社会主義政党をつくるよう励まされた。1896年には、市議会選挙に立候補して荷馬車屋の職を失い、靴修理でも失敗して、チリへの移住も考えた。だがレスリーの訴えで、ダブリン社会主義クラブの専従書記として週1ポンドの職の口を得て、同年にダブリンに赴いた。ここで土木作業員、次いで校正係として働き、クラブを分裂させて、アイルランド社会主義共和党を結成した。アイルランドのみならずイギリスでも社会主義労働者党の設立に加わり、移民が多くいたアメリカ合衆国でも活動し、アメリカ社会党の党員にもなった。1905年から1910年にかけてはアメリカで世界産業労働者同盟の専従の組織者を務めた。やがて活動はアイルランドでも発展し、1912年に労働党として結実した。ベルファストでは、プロテスタントの労働者を全アイルランドの労働運動に引き入れようとして挫折している。
コノリー自身は、イースター蜂起を企図したアイルランド共和主義同盟(IRB)やアイルランド義勇軍とは距離を置いていた。だが1916年に至り、アイルランド市民軍を結成して独自に武装蜂起の準備を進め、単独での蜂起の構えを見せた。このため、IRBは直前になってコノリーとの共闘を決めた。蜂起ではパトリック・ピアースとともにダブリンの中央郵便局を拠点として、軍人の経験を生かして義勇軍と市民軍の指揮を執ったが、戦闘で重傷を負い、逮捕された。軍法会議を経て、瀕死の重傷のまま救急車でキルメイナム刑務所に搬送され、1916年5月12日に処刑された。
同じ年に亡くなった人物
- リヒャルト・デーデキント (1916年没)
- アリス・ボール (1916年没)
- シュテファン・ルキアン (1916年没)
- ジャック・ロンドン (1916年没)
- 蔡鍔 (1916年没)
同じ地域に関係する人物
- エドワード・アーサー・ミルン (1950年没)
- ジョン・A・コステロ (1976年没)
- フランク・オコナー (1966年没)
- ジョージ・フィッツジェラルド (1901年没)
- カハル・ブルハ (1922年没)