HISTORICAL PERSON · 1916年没

グリゴリー・ラスプーチン

帝政ロシア末期のシベリア出身の農民。奇怪な逸話に彩られ「怪僧」と形容され、ロシア帝国崩壊の一因をつくったとされる。

生涯
1916年没
死亡地
ロシア連邦(サンクトペテルブルク)
出生地
ロシア連邦(ポクロフスコエ村)
出典
世界地図
ロシア連邦(サンクトペテルブルク)

伝記

グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンは、帝政ロシア末期の農民で、シベリアのトボリスク県の出身である。1916年12月30日(ユリウス暦12月17日)に没した。生年は確かな史料がなく、一般に1864年または1865年とされるが、1869年1月9日に生まれたとする記述もある。奇怪な逸話に彩られた生涯と怪異な容貌から「怪僧」と形容され、ロシア帝国崩壊の一因をつくったとされる。歴史的な人物評は極めて低い反面、映画や小説の悪役として人気が高い。僧侶ではなく、宗教的な名声を得たのちも、本人は生涯「一介の農民」と自認していた。法話や祈祷に報酬は求めなかった。例外として、サンクトペテルブルクの住まいを皇帝ニコライ2世から無償で提供されていた。

シベリアの寒村ポクロフスコエ村で、農夫エフィム・ヤコブレヴィチ・ラスプーチンと妻アンナ・パルシュコヴァの第5子として生まれた。学校に通わなかったため読み書きができなかったが、1897年の国勢調査では、村人の大半が同様だった。若いころは素行不良で粗暴だったとされ、古儀式派の教義に傾倒して頭角を現した。1887年にプラスコヴィア・フョードロヴナ・ドゥブロヴィナと結婚したが、1892年、父や妻に「巡礼に出る」と言い残して村を出奔した。野良仕事をしているとき、聖母の啓示を受けたという説がある。修道院で数か月過ごし、そこで出会った人物に強い影響を受けて、禁酒し、肉食を控えるようになり、村に戻ったときには熱心な修行者になっていた。1903年に再び数か月の巡礼に出て、キエフの修道院を巡り、カザンでは主教や上流階級の注目を集めた。教育は十分ではなく、独自の解釈で聖書を理解していたが、その熱心さが好感を与えた。

サンクトペテルブルクを出たのち、病気の治療で信者を増やし、「神の人」と称された。神秘主義に傾倒する大公妃ミリツァとアナスタシアの姉妹に寵愛され、1905年11月1日に彼女たちの紹介で、皇帝ニコライ2世と皇后アレクサンドラに謁見した。アレクサンドラも神秘主義に傾いていた。1906年10月、皇帝の要請で、爆弾テロで負傷したストルイピンの娘の治癒にあたった。1907年4月にはエカテリーナ宮殿に呼ばれ、血友病を患うアレクセイ皇太子の治療にあたり、祈祷の翌日に発作が治まって症状が改善した。医師たちは疑ったが、これにより皇帝夫妻の絶大な信頼を得て、「我らの友」「聖なる男」と呼ばれるようになった。治療法は、1899年以降に流通したアスピリンによる鎮痛だったと推測する研究者もいる。

多くの人々は、ラスプーチンをペテン師と考えた。侍医ボトキンは、彼の能力は催眠術だと信じて遠ざけようとした。1907年9月のトボリスクの教会裁判では、異端の教義を広めたと非難されたが、証拠は見つからなかった。1912年10月、皇帝一家が狩猟に出たビャウォヴィエジャの森でアレクセイの病状が悪化すると、ラスプーチンは手紙で、小さな子は死なないと助言を送り、皇太子は死なずに済んだ。1914年6月29日には、故郷の自宅で女性に短剣で腹部を刺されたが、一命をとりとめた。第一次世界大戦の直前には、戦争を避けるためならどんな努力も惜しまないと皇帝に懇願したが、請願は受け入れられなかった。戦争が長期化し、反独感情が高まるなかで、ドイツ出身の皇后とともに、彼にも非難が向けられた。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物