伝記
アルサケス2世は、アルサケス朝パルティア王国の第2代の王である。在位は紀元前211年頃から紀元前191年頃とされるが、終わりの年代には異論があり、紀元前185年までとする説もある。名前については、ギリシア語の史料ではアルサケス、ラテン語の史料ではアルタバノスとされており、これに従ってアルタバヌス1世と呼ぶ書物もある。出自についても説が分かれる。かつては、初代王アルサケス1世の兄弟ティリダテス1世の息子で、そのいずれかの跡を継いだと考えられていた。しかしティリダテスという王の存在を示す考古学上や貨幣上の証拠はなく、主要な古典史料であるユスティヌスは、アルサケス2世を初代王アルサケス1世の子で後継者としている。この親子関係は、旧ソ連の発掘で首都ニサから見つかった文書によっても裏づけられるという。
在位中の最大の出来事は、セレウコス朝のアンティオコス3世による遠征である。この東方遠征はパルティアとバクトリアに向けて紀元前210年から紀元前205年のあいだに行われたとされ、アルサケス2世がその相手の王として史料に現れることから、初代王の死は紀元前210年より前と考えられている。アンティオコス3世は、脅威であったアルサケス1世(あるいはティリダテス1世)の死を機に東方の失地回復をもくろみ、エクバタナに侵攻してアナヒター神殿で略奪を行い、自らの宝物庫を満たした。紀元前209年にはさらに東へ進み、パルティア領へ攻め入った。アルサケス2世は、水の乏しい砂漠を大軍が横断してくるとは考えておらず、横断の勢いを知ると、地下の水路や井戸を壊しながら後退した。ところがアンティオコス3世はこれを聞いて、ニコメデス率いる騎兵千を先行させて破壊をやめさせ、砂漠を渡ってパルティア中央部の都市ヘカトンピュロスに着いた。
セレウコス朝軍はここで休養し、ヒュルカニアへ進んだ。道は難所続きだったが、備えを固めていたため難なく越え、軽装兵を巧みに使ってパルティア軍との戦闘にも勝ち、城壁のない都市タンブラクスに到達した。タンブラクスにはギリシア人も住んでいたが、事前にパルティア人によって虐殺されていた。パルティア軍の大半は戦いを避け、堅固な守りでヒュルカニアの首都のような役割を果たしていたシリュンクスに逃げ込んでいた。アンティオコス3世はこの都市を攻め落とすと決め、城壁の外の三重の壕と二重の柵に対して、装甲車と白兵戦で激しく攻め、壕を埋め、トンネルを掘って城壁を崩して勝利した。ただし、シリュンクス陥落後にヒュルカニアの残りが落ちたかは明らかでなく、アルサケス2世は近づきにくい地に退いて名誉ある防戦をしたともいわれる。
ほどなくアルサケス2世はアンティオコス3世に恭順を示して同盟を結び、セレウコス朝の宗主権を認める代わりにパルティア王位を約束された。この協定でヒュルカニアに対するセレウコス朝の権威が戻り、パルティアは独自の貨幣の発行をやめたともいわれる。その後、紀元前190年にアンティオコス3世がローマにマグネシアで敗れると、この機に協定を破って独自の貨幣の発行を再開したのではないかという見方もある。
後を継いだ王はプリアパティオス(アルサケス3世)だとされる。ユスティヌスは、アルサケス2世の弱腰に不満を抱いた貴族の「元老院」がクーデターを起こして、二従兄弟のプリアパティオスを王位につけたと記すが、同盟から貨幣再開までは二十四年の開きがあり、この説明は成り立たないとも指摘されている。
同じ年に亡くなった人物
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同じ地域に関係する人物
- デメトリオス3世エウカイロス (紀元前87)
- アルサケス1世 (紀元前210年代没)
- アンドラゴラス (紀元前238年没)
- ティリダテス1世 (紀元前210年代没)
- アルテミタのアポロドロス (紀元前86)