伝記
アルサケス1世は、パルティア王国の初代王であり、アルサケス朝の名祖である。在位は紀元前247年ごろから紀元前211年ごろとされ、紀元前217年までとする説もある。名はパルティア語の「アルシャク」、古代イラン語で「英雄」を意味する語に由来し、中国では音訳の「安息」で知られた。以後の歴代パルティア王は、アルサケスを称号として用いた。
出自ははっきりしない。バクトリア人で、バクトリア総督ディオドトスの支配に不満をもち、パルティアに侵入して住民を扇動し反乱を起こさせたとする説がある。プリアピテスの子とも、プリアピテスの子アルサケスの子ともいわれる。最も有力なのは、ストラボンの伝えるスキタイ系の首長説で、中央アジアのダーエ族連合を構成する三部族のひとつパルニ族の指導者だったというものである。ローマの歴史家アンミアヌス・マルケリヌスは、低い生まれの盗賊で、数々の武勲ののちにセレウコス朝の領域を征服したと記している。パルニ族は紀元前3世紀半ばまでに現地のパルティア文化に同化し、パルティア語を話してゾロアスター教を信じるようになっていた。イランの伝承では、カイ・カワードやカイ・アラシュ、伝説の弓の英雄アラシュなどの子孫とされ、アラシュとの結びつきは、名が似ていることと、アルサケスの貨幣が弓を持つ姿を刻むことによる。アルサケス自身もパルティアで生まれ育った可能性が高いとされる。ダーエ族は古くから騎馬弓兵として諸王の軍に仕えたため、アルサケスもセレウコス朝の傭兵だったかもしれないという。
紀元前250年ごろ、アルサケスはパルニ族の従者たちとともにアトレク川流域に近いアスタウエネを奪った。数年後の紀元前247年ごろ、自ら築いたアサアクの町で王に即位した。この町は後にアルサケス朝の王墓の地となり、この即位が王朝の始まりと考えられている。別の伝えでは、セレウコス2世が小アジアでガラティア人に敗れたという噂を聞いたアルサケスが、弟のティリダテス1世と盗賊の手勢を率いてセレウコス朝のパルティア州に侵入し、総督アンドラゴラスを襲って殺害したのち、アサアクで王冠を授けられたとされる。アンドラゴラスはセレウコス2世から離反して独立していた人物で、セレウコス朝の軍事支援を失い、国境を保つのに苦労していた。
アルサケスはヒュルカニアも手に入れ、パルティアとヒュルカニアの二つの地域を支配した。バクトリアのディオドトス1世を恐れて大規模な軍を整えたが、紀元前234年にディオドトス1世が没すると、王位を継いだ息子ディオドトス2世と講和を結ぶことができた。こうしてセレウコス朝との会戦に臨む態勢が整い、紀元前227年ごろ、東進してきたセレウコス2世を退却させて勝利を宣言した。パルティア人はこの日を自由の始まりの祝日とみなした。
セレウコス2世が別の騒乱で小アジアに呼び戻されると、アルサケスは軍を立て直して城砦を築き、アパオルテノン山にダラという都市を建設した。四方を険しい岩壁に囲まれて守りが固く、周辺は肥沃で、泉と森があり、狩りもできる快適な土地だったという。老齢のため紀元前211年ごろに没し、息子のアルサケス2世が跡を継いだ。古代の文献は彼について乏しく、しかも数世紀後のギリシア・ローマ人による矛盾した記述に限られるため、治世は十分にわかっていない。その存在は近代の学者に疑われたこともあったが、1960年代の研究と考古学上の発見によって確認された。
同じ年に亡くなった人物
- リュクルゴス (スパルタ王) (紀元前210年没)
- グナエウス・フルウィウス・ケントゥマルス・マクシムス (紀元前210年没)
- 扶蘇 (紀元前210年没)
- Salisuka (紀元前210)
- クレオメネス3世 (紀元前210年代没)
同じ地域に関係する人物
- スレナス (紀元前52年没)
- アブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィー (2006年没)
- ティリダテス1世 (紀元前210年代没)
- アルタバノス1世 (紀元前120年代没)
- アルサケス2世 (紀元前191年没)