伝記
ムスチスラフ2世は、キエフ大公(在位1167年 - 1169年、1170年にも一時)を務めた人物である。生年は分からず、1125年ごろともされる。イジャスラフ2世の長男で、息子には南西ルーシで活躍したロマン大公がいる。ラヴレンチー年代記の1146年の記事に初めて現れ、次いでイパーチー年代記の1147年から1148年の記事に登場する。当初はペレヤスラヴリ・ルースキーの公で、1148年に、ユーリー・ドルゴルーキーの子グレプをこの町で撃退した。ポーランド王ボレスワフ3世の娘アグネシュカと結婚し、3人の息子をもうけた。結婚は1151年とされる。
1151年には、父を助けるためにハンガリー軍を率いたが、ユーリー・ドルゴルーキーの同盟者であるハールィチ公ウォロディミルに敗れた。彼は父とともに、大叔父のユーリー・ドルゴルーキーやチェルニゴフの諸公との戦いに加わった。1153年にはポーロヴェツ人を破ったが、その後、プショール川の近くの戦いで、彼らに敗れた。1154年に父が死ぬまでペレヤスラヴリの公であった。翌1155年には、ユーリー・ドルゴルーキーに敗れてルーツクからポーランドへ逃げたが、1156年に新しい軍を連れてヴォルィーニに戻り、ヴォロディームィル・ヴォルィーンシクィイでユーリーを破った。そののち、ヴォルィーニの防備を固めた。
1157年、キエフにいたユーリー・ドルゴルーキーに対し、チェルニゴフ公とともに軍を向けたが、このときユーリーはキエフで死んだ。ムスチスラフはまもなく大公位についたともいわれるが、ヴォロディームィルの町に住むことを好み、1158年にキエフの座を叔父のスモレンスク公ロスチスラフに譲ったとも、1159年にキエフを占領して叔父を大公につけたともされる。叔父ロスチスラフの戦いを助け、従兄にあたる大公イジャスラフを、ベルゴロドの戦いで破って殺した。1163年からは叔父とともにキエフを治めた。
1167年に叔父が死ぬと、ムスチスラフはキエフに迎えられて大公となり、キエフの人々にたいへん好かれた。1168年にポーロヴェツ人への遠征を行った。1169年には、アンドレイ・ボゴリュブスキーのキエフ攻撃に持ちこたえられず、ヴォロディームィル・ヴォルィーンシクィイに退いた。1170年に再び短い間キエフを占領したが、同じ年にヴォロディームィル・ヴォルィーンシクィイで死去した。没年を1172年とする説もある。息子には、ロマン(1152年ごろ - 1205年)、ベレスチエ公となったスヴャトスラフ、1196年に没したフセヴォロドがいる。
同じ年に亡くなった人物
- アルブレヒト1世 (ブランデンブルク辺境伯) (1170年没)
- 王重陽 (1170年没)
- クトブッディーン・マウドゥード (1170年没)
- マリア・フォン・ベーメン (1170年(推定))
- オワイン・グウィネズ (1170年没)
同じ地域に関係する人物
- Halshka Hulevychivna (1642年没)
- トハイ・ベイ (1651年没)
- ボレスワフ・ユーリー2世 (1340年没)
- Ipatii Potii (1613年没)
- アンドレイ・クルプスキー (1583年没)