伝記
グナエウス・コルネリウス・レントゥルスは、共和政ローマの政務官で、紀元前201年に執政官(コンスル)を務めた人物である。没年は紀元前183年とされるが、紀元前184年に死去したとする記述もあり、一定しない。エトルリアに起源を持つ貴族(パトリキ)のコルネリウス氏族の出身で、この氏族はローマで最も強力で、多くの枝族を持っていた。父は紀元前237年の執政官ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・カウディヌス、祖父は紀元前275年の執政官で凱旋式を挙行した同名の人物である。弟は紀元前199年の執政官ルキウスと考えられている。息子たちも、ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・ルプスが紀元前156年に、グナエウス・コルネリウス・レントゥルスが紀元前146年に、それぞれ執政官となった。
紀元前216年、カンナエの戦いに高級士官(トリブヌス・ミリトゥム)の一人として加わった。複数の古代の記録によれば、ローマ軍の敗北が明らかになったとき、レントゥルスは負傷して岩に座る執政官ルキウス・アエミリウス・パウルスを見つけ、自分の馬を差し出して救おうとした。パウルスはこれを拒み、最後の言葉をクィントゥス・ファビウス・マクシムスに伝えるよう頼んだという。ただし、この話はおそらく創作だとされる。紀元前212年には財務官(クァエストル)となった。ウェネウェントゥム付近でハンニバルと戦っていたティベリウス・センプロニウス・グラックスが待ち伏せで戦死すると、ハンニバルから送られたグラックスの首を使って野営地で葬儀を行ったとされる。ハンニバル自身が葬儀を行い、遺灰をローマに送ったとする説もあり、こちらが一般に受け入れられている。レントゥルスはその後しばらくグラックスの軍を指揮した。カプアでの戦いでは、レントゥルスの騎兵が突然現れたため、両軍とも敵の増援部隊と考えて戦闘を止めたと伝えられる。
紀元前205年に上級按察官(アエディリス・クルリス)となり、同僚は弟のルキウスとも、いとこのプブリウスともいわれる。紀元前201年、平民のパエトゥスとともに執政官に就いた。前年にスキピオ・アフリカヌスがザマの戦いで決定的な勝利を収めていたが、第二次ポエニ戦争はまだ続いていた。レントゥルスはアフリカへの出征を求めた。実現すれば最後の栄光は彼のものになる。パエトゥスはこれに干渉しなかったが、リウィウスによると、それは不可能だと考えていたからである。
民会はスキピオをアフリカの総司令官とすることを再び認めたが、最終決定は元老院に委ねられた。元老院は、執政官の一人が艦隊を率いてシキリアへ向かい、戦争が続くなら艦隊でアフリカへ渡ると定め、その役はレントゥルスに回った。カルタゴの使節が講和交渉のため訪れると、レントゥルスは講和を妨げようとしたが、失敗したという。護民官のマニウス・アキリウス・グラブリオとクィントゥス・ミヌキウス・テルムスは、レントゥルスにアフリカを割り当てることに反対し、カルタゴとの和平を平民会で決議させた。リウィウスによれば、スキピオは後に、レントゥルスらがカルタゴの完全な破壊を妨げたと繰り返し述べたというが、事実かどうかは疑わしい。
紀元前200年も艦隊を率いたと考えられる。紀元前199年にはナルニアへの植民を追加する三人委員の一人に選ばれ、ヒスパニア・ウルテリオルの総督として功績によりオウァティオを受けたとする記述もある。紀元前196年にはピリッポス5世のもとへ使節として派遣された。鳥占官も務め、おそらく紀元前217年より前からであり、後継にはポストゥミウス・アルビヌスが選ばれた。
同じ年に亡くなった人物
- ハンニバル (紀元前183年没)
- メガロポリスのフィロポイメン (紀元前183年没)
- スキピオ・アフリカヌス (紀元前183年没)
- アゲシポリス3世 (紀元前183年没)
- プブリウス・リキニウス・クラッスス・ディウェス (紀元前183年没)
同じ地域に関係する人物
- ニーノ・マンフレディ (2004年没)
- マルクス・クラウディウス・マルケッルス (紀元前166年の執政官) (紀元前148年没)
- Titus Quinctius Atta (紀元前76)
- レオン・バッティスタ・アルベルティ (1472年没)
- デキムス・ユニウス・ブルトゥス・カッライクス (紀元前113年没)