伝記
エミール・デュルケームは、1858年4月15日、フランスのロレーヌ地方ヴォージュ県エピナルに生まれた社会学者である。代々敬虔な信仰を保ってきたフランス系ユダヤ人の家系の出で、父と祖父はラビだった。教え子や友人の多くもユダヤ人で、血縁者でもあったが、彼自身は世俗的な人生を送った。彼の業績の多くは、宗教現象が天与のものよりも、社会的な要素に起因することを実証したものだった。パリの高等師範学校で学んだ後、リセで哲学の教授を務めた。1886年にドイツに留学して、実証的な社会科学の方法を学んだとされる。翌1887年にフランスに帰ると、アルフレッド・エスピナスに招かれてボルドー大学の職に就き、ルイーズ・ドレフェスと結婚した。このボルドー時代に、処女作『社会分業論』や代表作『自殺論』が書かれ、研究成果により名声が次第に高まった。
デュルケームは、当時としては斬新な独自の視点から社会現象を分析し、経験科学としての社会学の立場を鮮明に打ち出した。オーギュスト・コントが創始した社会学は、まだ学問として確立されていなかったため、他の学問にはない独自の対象を扱う独立した科学としての地位を築こうと尽力した。『社会分業論』では、社会学を「道徳科学」と位置づけ、個人の統合を促す社会的要因としての道徳(規範)の役割を解明することだと考えた。ついで『社会学的方法の規準』では、社会学の分析対象は「社会的事実」だと明示した。社会的事実とは、個人の外にあって個人の行動や考え方を拘束する、集団や全体社会に共有された行動・思考の様式のことで、「集合表象」とも呼ばれる。初対面の人に挨拶をすることや、うそをつくのは悪いと考えることは、その例である。彼は、個人の意識を扱う心理学からは社会現象を分析できないとして、心理学的社会学の立場をとったガブリエル・タルドを強く批判した。
1897年に刊行された『自殺論』は、サブタイトルに「社会学研究」とあるとおり、社会的事実を客観的、実証的に分析しようとした意欲作である。欧州で自殺率の急上昇が話題になる中、各国の自殺率が短期間ではほぼ一定の値を示す統計資料などから、各社会は一定の社会自殺率を持つとして、社会の特徴によって自殺がどう異なるかを明らかにしようとした。自殺を個々の人間の心理からではなく、社会的要因から説明し、4つに類型化した。1898年には、フランスで初めての社会学の機関誌『社会学年報』を創刊した。この執筆者や協力者たちから、デュルケーム学派という研究グループが生まれ、彼の死後はマルセル・モースが中心となって、フランスの有力な社会学派へと成長した。
1902年、フェルディナン・ビュイッソンの後任として、ソルボンヌ大学の教育科学講座に移った。以降、教育をテーマにした研究が多くなり、『教育と社会学』や『道徳教育論』を書いた(これらが書籍として出版されたのは没後である)。宗教研究も続け、『宗教生活の原初形態』を書いた。1914年、サラエボ事件のあとの緊張のなかで、高等師範学校時代の旧友ジャン・ジョレスが右翼テロの犠牲となった。第一次世界大戦が始まると、挙国一致のユニオン・サクレに加わって戦争協力のパンフレットを書いたが、息子アンドレを戦争で失った。これは心身に大きな打撃を与え、1917年5月にはソルボンヌの講義を中止して静養した。以後、職務に復帰することはなく、同年11月15日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- カルロ・オリアーニ (1917年没)
- ルドヴィコ・ザメンホフ (1917年没)
- ジョン・W・フォスター (1917年没)
- ジェームス・クラフツ (1917年没)
- オーギュスト・ロダン (1917年没)
同じ地域に関係する人物
- ルイ・フィリップ2世 (オルレアン公) (1793年没)
- エミール・ワルトトイフェル (1915年没)
- ポール・ユエ (1869年没)
- ネリー・アダムソン・ランドリー (2010年没)
- ラ・グーリュ (1929年没)