伝記
フランツ・ブレンターノは、1838年1月16日、ライン川沿岸のボッパルト付近のマリーエンブルクで生まれたオーストリアの哲学者・心理学者である。イタリア出身でドイツの名門のブレンターノ家の子で、ドイツ・ロマン主義の小説家クレメンス・ブレンターノは伯父、女流詩人ベッティーナ・フォン・アルニムは伯母にあたり、弟のルヨ・ブレンターノは経済学者として名を残している。父クリスティアンはカトリックの宗教的な著述家で、早くに亡くなったため、彼はもっぱら母エミリエによって、敬虔なカトリックの雰囲気のなかで育てられた。ミュンヘン、ヴュルツブルク、ベルリン、ミュンスターの各大学で哲学と神学を学び、1862年にテュービンゲン大学で学位を得た。1864年にカトリックの司祭となり、1866年にヴュルツブルク大学で教授資格を取得した。その就任にあたり25のテーゼを朗読して弁明を行い、第4のテーゼで「哲学の真の方法は自然科学の方法にほかならない」と語った。
若いころは、数学と哲学のどちらに進むべきか悩んだが、哲学を志した。フィヒテ、シェリング、ヘーゲルの思想には、非科学的に映って馴染めず、形而上学の問題にも自然科学と同じ方法を求めた。そこで彼が向かったのがアリストテレスの体系で、終生の師として仰いだのはアリストテレスのほかになかった。しかし哲学的な動機からカトリックの教義に疑念を持つようになり、1873年に司祭職を辞した。これが波紋となり、ヴュルツブルク大学も去って、1874年にウィーン大学に移った。この年に『経験的立場からの心理学』を出版した。1880年にウィーン大学の教授を辞して、同大学の私講師となり、1884年から1886年にはフッサールが彼の講義を聴きに来ていた。1880年にイーダ・フォン・リーベンと結婚したが、1894年に死別し、1897年にエミリエ・ルエプレヒトと再婚した。1895年に教職を辞してフィレンツェに移住した。
『経験的立場からの心理学』で、彼はスコラ哲学に由来する志向性の概念を現代哲学に再導入したことで最もよく知られる。心理学を「心の学」ではなく「心的現象に関する学」と規定し、知覚と経験をその基礎とした。色や音、暖かさ、冷たさなど五感で知覚される現象を物的現象と呼び、それ以外の内的知覚でしか認識できない現象で、対象への方向性や関係をもつものを心的現象と呼んだ。この対象への関係が志向性で、「志向的内在」という言葉で表した。直接に明証的な知覚であるのは心的現象の内的知覚だけで、外的知覚の対象は現象としてのみ存在するとした。この考えは心理学や現象学に大きな影響を与え、フッサールやマイノングらに多大な影響を及ぼした。彼の指導や強い影響を受けた学者は「ブレンターノ学派」と呼ばれる。フッサールとフロイトを含めないとしても、20世紀の大陸ヨーロッパの哲学運動で彼に無関係なものを見つけることはできないとさえ言われる。
イタリア移住後の1905年ごろを境に、心的現象と存在論についての考え方を大きく変えたと言われる。1911年の『心的現象の分類について』では、以前の考え方を訂正し、心的関係の対象となりうるのは「実在的なもの」だけだとする「もの主義」を打ち出した。第一次世界大戦が1914年に勃発すると、戦禍を避けてチューリヒに移り、1917年3月17日に79歳で没した。「最も引用されるが、最も研究されない哲学者の一人」と評されるほど、現代の彼をめぐる状況は奇妙なものである。
同じ年に亡くなった人物
- ジョゼフ・アレヴィ (1917年没)
- ジョン・W・フォスター (1917年没)
- フィリップ・フォン・ヴュルテンベルク (1917年没)
- バッファロー・ビル (1917年没)
- アントニオ・デ・ラ・ガンダラ (1917年没)
同じ地域に関係する人物
- エミール・ゲルディ (1917年没)
- ヨハン・ヤーコプ・ボードマー (1783年没)
- シャフリル (1966年没)
- リヒャルト・R・エルンスト (2021年没)
- Urs Widmer (2014年没)