伝記
エヴフロシニヤ・ポロツカヤ(ポロツクのエヴフロシニヤ)は、キエフ・ルーシ時代のポロツク公国の修道女・教育者で、のちに聖人とされた人物である。生まれたのは1101年から1105年のあいだとされ、1104年が最も可能性が高いという。修道女になる前の名はプレドスラヴァといい、ヴィテプスク公スヴャトスラフの娘で、ポロツク公フセスラフの孫にあたる。公女として育ったが、結婚の申し込みをすべて断り、両親に知らせないまま、叔母が院長をつとめる修道院へ逃れて修道女となったとも伝えられる。12歳で修道院に入ったとも伝わり、アレクサンドリアの聖人にちなんだ修道名を得た。
エヴフロシニヤは字が読め、多くの本を読むことができた。ポロツクの主教の許可を得て、豊富な蔵書を持つポロツクの聖ソフィア大聖堂の僧房に住んだ。市民の注文に応じて本を書き写し、受け取った金銭を施しとして分けた。1127年から1128年のあいだ、主教エリヤが修道院の設立を彼女に任せ、ポロツクに修道院を創立した。この修道院では、彼女の影響で、姉妹のゴルディスラヴァ(洗礼名エヴドキヤ)と従姉妹のズヴェニスラヴァ(洗礼名エヴプラシヤ)が剃髪した。彼女は若い女性たちに、本の書写、歌、裁縫などの手仕事を教えた。この修道院は多くの寄進を受けたため、石造りの聖堂と生神女マリヤ教会が建てられた。聖母を祀る修道院と二つの教会も彼女が創った。1160年ごろには、福音記者ルカが描いたという伝承のある生神女のイコンがビザンツからもたらされた。1161年には彼女の働きで聖堂が建ち、救世主聖堂へ十字架が捧げられた。救世主聖堂は今も残り、初期ベラルーシ建築の最も貴重な記念碑とされる。
この十字架は、地元の職人ラザル・ボグシャが彼女の求めで作った、宝石をはめた六本腕の金の十字架で、七宝と宝石で飾られていた。人生の終わりごろ、エヴフロシニヤはコンスタンティノープルと聖地への巡礼に出かけ、コンスタンティノープル総主教ミカエル2世からイコンを贈られた。エルサレム王アマルリク1世も、聖地で彼女を迎えた。1173年5月23日にエルサレムで没し、ベツレヘム近郊の修道院に葬られた。のちにサラディンがエルサレムを征服した1187年のあと、遺体は修道士たちによってキエフのペチェールシク大修道院へ運ばれ、1910年にようやく故郷のポロツクに戻された。
エヴフロシニヤは、現在のベラルーシ領の出身者としては最初の女性の聖人となった。12世紀に書かれた彼女の伝記は、東西教会の分裂の後も、正教とカトリックの両方で尊ばれている。1910年に帝政ロシアの聖務会院によって列聖された。祭日はユリウス暦の5月23日である。東スラブ出身の唯一の処女の聖人とされ、1984年からはベラルーシの15人の守護聖人の一人に数えられる。ポロツクとミンスクに彼女の名を冠した修道院や教会があり、ロンドン、トロント、ヴィリニュスなどにも教会がある。十字架は13世紀までポロツクにあり、その後16世紀の初めまでスモレンスクにあって、1514年にヴァシリー3世によってモスクワへ運ばれた。1841年にポロツクへ戻ったが、1941年の博物館の疎開の際に姿を消し、モギリョフで目撃されたのを最後に、行方が分かっていない。この十字架はベラルーシ国民の象徴としてしばしば使われ、1991年から1995年までの国章にも描かれ、1992年にはレプリカが作られた。
同じ年に亡くなった人物
- ナジムッディーン・アイユーブ (1173年没)
- Nerses IV the Gracious (1173年)
- ラインバウト・ダウレンガ (1173年没)
- コル (1173年)
- 毅宗 (高麗王) (1173年没)
同じ地域に関係する人物
- シャウル・チェルニホフスキー (1943年没)
- レオポルド・トレッペル (1982年没)
- シュムエル・アグノン (1970年没)
- ルース・アミラン (2005年没)
- アモーリー1世 (エルサレム王) (1174年没)