伝記
毅宗は、1127年5月23日に生まれ、1173年11月7日に没した高麗の第18代の王で、在位は1146年から1170年までである。姓は王、諱は晛、初名は澈といい、諡号は剛果荘孝大王という。仁宗と恭睿王后任氏の長男に生まれ、7歳で太子となり、20歳近くになった1146年に即位した。太子のころ、王位を継ぐ資質を母后に疑われ、廃太子もとりざたされた。
即位後の毅宗は、遊びにふけって政務を投げ出したといわれる。宮殿や庭園を造り、旅や宴を好んで放蕩な暮らしを送り、国家の財政にも重い負担をかけた。官僚の位階に応じて色の異なる服を作らせ、父の仁宗が地方に設けた学校の運営も続けたが、治世の終わりには、その重みは次第に薄れた。文臣を重んじて多くの儀式で敬った一方、武臣はぞんざいに扱い、武芸の競技に出させて自分や文臣の余興にしたり、土地の分配でわずかな分しか与えなかったりした。しばしば酔っていたことも、武臣たちの怒りを募らせた。寵愛した宦官たちの専横を見逃したため、宦官が政治に口を出すこともあった。
1170年の秋、毅宗が普賢寺へ向かう途中、かねて冷遇されていた鄭仲夫、李義方、李高ら武官が軍を動かして反乱を起こした。庚寅の乱である。武官らは文臣や宦官を刺殺し、毅宗と太子を島流しにして、毅宗の弟の明宗を王位に就けた。これ以後、約100年にわたって、高麗では武官が政務を執る武臣政権が続いた。武人たちのあいだでも権力争いが起こり、殺し合いが重なって、王権は弱まった。
1173年、武臣政権に反感を持つ金甫当が反乱を起こして毅宗の復位を目指した。反乱軍の一派は、巨済島に幽閉されていた毅宗を慶州に移したが、金甫当が敗死して計画は失敗した。同年10月、毅宗は李義方が送った刺客の李義旼に、素手で背骨を折られて殺された。遺体は大釜に入れられ、池に捨てられたと伝えられる。1174年、西京留守の趙位寵が、毅宗殺害の罪を問う名目で朝廷に反旗を翻すと、李義方を殺して政権を握った鄭仲夫は、民心をなだめるために毅宗の国喪を準備した。慶州に仮に葬られていた遺体は開京に送られ、翌年5月に禧陵に葬られた。
毅宗の治世は、門閥貴族と武人集団の対立が深まり、その調整に失敗した結果として武臣政権が生まれた、高麗王朝の分水嶺となる時期だったとされる。荘敬王后金氏とのあいだには、孝霊太子と、敬徳、安貞、和順の三人の公主がいた。孝霊太子は1153年に太子に立てられた。荘宣王后崔氏とのあいだに子はなく、側室の無比らとのあいだに3人の娘と9人の息子がいたが、名は分かっていない。
同じ年に亡くなった人物
- エヴフロシニヤ・ポロツカヤ (1173年没)
- トゥデラのベンヤミン (1173年没)
- ボレスワフ4世 (1173年没)
- ナジムッディーン・アイユーブ (1173年没)
- Nerses IV the Gracious (1173年)