伝記
ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスは、共和政ローマの政務官で、第二次ポエニ戦争後のマケドニア遠征で活躍し、ギリシアに自由をもたらした人物として知られる。紀元前228年に生まれ、紀元前174年頃に没した。貴族のクィンクティウス氏族の出で、この氏族は代々、髪の毛に由来する添え名を名乗った。フラミニヌス家の名は、紀元前300年頃のユッピテル神官にさかのぼるとも考えられている。紀元前192年の執政官ルキウスは恐らく弟だが、逆とする説もある。
歴史への初登場は紀元前208年で、この年戦死した執政官マルケッルスのもとで軍団の高級士官を務めた。おそらく20歳で、戦時ということで認められたのだろうとされる。紀元前205年には前法務官の権限でタレントゥムに赴任した。その前に財務官を務めたと考えられ、前任者の急死を受けて命令権を預かった可能性もある。紀元前201年にはスキピオの退役兵に土地を分配する十人委員会に選ばれ、翌紀元前200年にはウェヌシア入植の三人委員となった。プルタルコスは、これらの植民市からの支持が経歴に重要な役割を果たしたとしている。
紀元前199年に執政官選挙に立候補すると、護民官たちは、財務官しか経験していないことを理由に反対した。元老院は民衆の投票に委ね、29歳の若者が紀元前198年の執政官に選ばれた。どのような支持を得たのかははっきりしないが、貴族として落ち目ではあっても様々な縁故があり、タレントゥムでギリシア文化に触れていたことは確かで、当時は若者に機会を与えることに比較的寛容だった。戦況が悪化し軍団兵の反乱まで起きていた第二次マケドニア戦争で、兵の支持も高いこの若者が突破口を開くと期待されたのかもしれない。一方で、実績に乏しい野心的な若者が縁故とくじ運で成り上がっただけという見方もある。
マケドニア戦争を引き継ぐと、弟ルキウスを副官として艦隊に任せ、スキピオの古参兵から精鋭を選んでエピロスへ渡り、アオウス川でマケドニア軍と対峙する軍団に合流した。一か月以上考えても堅い守りを抜く手段は見つからず、仲介を受けてピリッポス5世と交渉したが、テッサリアの解放を求められた王は激怒して打ち切った。正面攻撃は失敗したが、エピロスの有力者に紹介された道案内人の導きでマケドニア軍を挟み撃ちにして勝利した。これを見たアエトリア同盟はローマ側についた。冬にはアカイア同盟がローマ側に回り、弟が派遣された会議で僅差で決まった。古代の記録はエピロスへの寛容が人望を集めたとも、ローマ軍への恐怖のためだったともいう。
ポキスとロクリスで冬営中、ニカイアで会談が開かれた。ローマ側はマケドニアのギリシアからの完全撤退、捕虜の返還、イリュリアの割譲、プトレマイオス5世から奪った都市の返還を求めた。ピリッポスはローマの要求には応じるがギリシア諸国の要求は飲めないと答え、交渉はローマ市に持ち越された。軍を動かす季節は終わっていたため2か月の休戦が置かれ、フラミニヌスはマケドニアとギリシア諸国の使者とともに、数名の使節をローマ市へ送った。翌紀元前197年にも前執政官として戦争を続け、キュノスケファライの戦いでマケドニアを破った。ピリッポスは降伏し、攻め落とした都市の放棄と1,000タレントの賠償金の支払いを約束させられた。この戦いは、ローマの軍団がギリシア古来のファランクスより優れていることを示したとされる。
同じ年に亡くなった人物
- マルクス・セルウィリウス・プレクス・ゲミヌス (紀元前 174年)
- プブリウス・アエリウス・パエトゥス (紀元前201年の執政官) (紀元前174年没)
- ヘリオドロス (紀元前174)
- グナエウス・セルウィリウス・カエピオ (紀元前203年の執政官) (紀元前174年没)
- 冒頓単于 (紀元前174年没)
同じ地域に関係する人物
- ベネディクトゥス7世 (ローマ教皇) (983年没)
- プブリウス・ウァレリウス・プブリコラ (紀元前503年没)
- Carlo Giuliani (2001年没)
- グナエウス・ポンペイウス・ミノル (紀元前45年没)
- クロード・ロラン (1682年没)